狸は腹の中で縁談を企んでました
天正十四年、七月。
さすがにこの時期になると、駿河も容赦なく暑い。
(あっっつ……。)
風はぬるく、日差しは強い。扇風機も冷蔵庫もないこの時代では、どうにもならない。
(クーラー欲しい……せめて、扇風機……。)
なんて、言っても仕方がないのだけれど。
そんな中、家康は大坂へ上阪し、豊臣家への臣従を宣言した。
これにより、徳川は豊臣の配下となる。
(……さて、どうなるかしらね。)
北条、伊達、最上。そして九州。
各地の動きが気になるところではあるが――
今はひとまず、家康が無事に戻ったことの方が大きい。
大政所は、『婿殿が帰って来たんなら、オラァはもう用はねぇな!』と言い残し、大坂へ戻っていった。相変わらずである。
それから、例の「柴積み事件」。
どうやら秀吉の耳にも入ったらしいが……
『徳川殿は誠、良き家臣をお持ちじゃ!』
と、なぜか上機嫌だったという。
(……基準どうなってんのよ。)
重次は、『御前様に頼まれてやっただけなんだが……』と、困惑していたという。
まあ、とりあえず……しばらくは平穏が戻るだろう。そう思っていた。
***
「姫様、殿がお呼びで御座います。」
帳簿と睨めっこしていたところで、於孝に声を掛けられた。
「殿が?」
「はい。本丸へ、との事で。」
(……何かやったっけ、私。)
思い当たる節が多すぎる。
嫌な予感がして、内心ビクビクしつつも本丸へ向かう。
家康の私室には、家康、旭、阿茶局が揃っていた。
「おお、一の姫!来たか!」
手招きされるまま、部屋へ入る。
「御尊顔を拝し――」
「ああ、挨拶はよい。」
即カット。
(雑っ。)
「一の姫に土産を渡したくての。」
「……土産、ですか?」
家康は長細い木箱を差し出した。旭に促され、蓋を開ける。
中には、真新しい筆。見るからに上等な品だった。
「これを……私に?」
「ああ。」
「ありがとうございます。大切に使います。」
顔を上げると、家康が娘でも見守るような目で、じっと茶々を見ていた。
「あ、あの……殿?」
「ああ、すまんすまん。」
ふっと視線を逸らす。
「土産のためだけに呼んだのでは、ないのでしょう?」
茶々はじっと見据える。
「……ははは!やはり敵わぬのう!」
ひとしきり笑った後、家康は表情を改めた。
(な、なんだろ……。怒られる?
やっば、蝉がうるさくてあそこの庭の枝を落としたことかな?
庭の池の鯉が一匹窮屈そうだったから、こっそり別の池に移したのバレた?
それとも………団子が食べたくなって、侍女たちとこっそり団子作って、夜中にお菓子パーティーしたこと、バレた?)
まぁまぁ、やらかしている。
「一の姫よ……。」
言い淀む。
(おや?これは……怒られない。もしかして?もしかする?)
茶々、澄ました顔をしているが、怒られないと分かり、内心安堵している。
「お茶々。」
先に口を開いたのは旭だった。
「アンタに、縁談があるんよ。」
「縁談、ですか?」
家康と旭が、静かに頷く。
(……なるほど。)
茶々は内心でため息をついた。
十九。
この時代では、決して遅くは………いや、むしろ遅いくらいだ。
妹たちはすでに嫁ぎ、あるいは婚約している。
順番で言えば、本来は自分が先だったはずだ。
(まぁ……仕方ないか。
でもさ!十九で行き遅れ扱いって、この時代早すぎん!?基準どうなってんの!?)
ほんの少し……いや、かなり納得がいかなかった。
「して……お相手は?」
「もうそろそろ来る頃かと。」
阿茶局が穏やかに答える。
(誰かな?)
茶々は、家康から貰った筆の木箱をぎゅっと握る。
(顔見知りだといいんだけど……。)
この時代、顔も知らぬ相手に嫁ぐのは珍しくない。
だからこそほんの少しだけ、不安だった。
「御免。」
短く告げる声。
その声を聞いた瞬間、茶々の思考が止まった。
(……え?)
聞き覚えがある。振り返らずとも分かる。
(ちょっと待って。いや、まさか。)
頭が上手く回らない……。
(……マジで?)
「おお、来たか。ささ、遠慮するな、此れへ。」
「はっ。」
男が、茶々の隣に腰を下ろしたので、ゆっくりと視線を向ける。
そこにいたのは……。
「……井伊様。」
井伊直政だった。
「すまんねぇ〜、井伊殿。」
「いいえ……。」
直政はどこかぎこちない。そして、顔がわずかに赤い。
茶々と目が合った瞬間、さらに赤くなりそっと逸らした。
(あ、これガチのやつだ。)
「一の姫。」
家康が口を開く。
「其方を儂と旭殿の養女とし、万千代の元へ嫁がせたい。」
「……へ?」
思わず、間の抜けた声が出た。
「どうしたの?不服?」
「い、いいえ!」
慌てて首を振る。
「突然のことで、驚いているだけです!」
(いやそりゃ驚くわよ!?
相手が井伊直政って何!?……レベル高すぎん!?え?いいの?こんなイケメン貰っちゃって!?)
貴女は嫁ぐ側ですよ。
直政は、隣で赤い顔をしたまま、じっと畳を見つめている。一切、茶々を見ない。
(いや、見なさいよ。……こっちが気まずいわ。)
「万千代、其方はどうじゃ?」
「……は、はい。」
直政が顔を上げる。一瞬だけ視線が合うが、またすぐ逸れる。
「一の姫様が良き、と仰られれば……。
某は……一の姫様を、妻に迎えとう存じます。」
言葉を選びながら、キッパリと告げた。
(……意外。)
もっと命令っぽいかと思っていた。だが違う。
(ちゃんと、自分の言葉だ。)
ふと、茶々の中で引っかかる。
(あれ?ちょっと待って。)
「殿、旭様。茶々が養女となり、井伊様へ嫁ぐ件――」
一拍。
「豊臣は、承知してござりましょうか?」
「ああ。」
家康が即答する。
「大政所様と北政所様には内諾を得ておる。」
(殿下は?)
言葉には出さない。
そこに、旭があっさり答えた。
「兄様のことでしょ?知らん知らん。」
(え。)
「母様と義姉上様がええ言うたんやから、ええわ。」
(いいの!?それで!?)
話は、あっという間に進んでいく。
「お茶々はどう?嫌なの?」
「嫌だなんてとんでもない!」
きっぱりと言う。
「良きご縁を整えていただきました。」
「じゃあ決まりやね。」
(決まるの早くない!?)
「あの、井伊様。」
「は、はい!」
ビクッとする直政。
「(……ちょっと、可愛い。)誠に、私で宜しいのですか?」
「はい。」
返事に迷いは一切ない。
「実は……一の姫様を是非にと、殿に直談判しました。」
(え。……うっそ!自分から!?)
「マジ?」
「……はい?」
「ごめんなさい、何でもないです。」
「お茶々。」
「はい!」
旭に呼ばれ、反射で返事する。
「私らは準備に取り掛かるから。」
「はい、ありがとうございます。」
「まぁまぁ、後は若い二人でぇ。」
ニヤニヤしながら、旭と阿茶局に部屋から追い出された。
廊下に出された二人の間には、長い沈黙。
(……気まず。)
茶々のやらかしは、小学生レベル(笑)




