大政所様、駿河に来るってよ
年が明け、天正十四年。
於義丸とお江の婚約は、寧々と竜子からの文で知らされた。
竜子の文には、初夫妻やお江の近況が細やかに綴られていたが…………寧々の文は、ほぼ愚痴である。
秀吉が新たな側室を迎えただの、湯殿の女にまで手を出しただの。 それはもう、延々と。
(……まぁ、気が晴れるならいくらでも書いてくれって感じやけど。)
茶々は軽く肩をすくめた。
「これだけ女に手を出しておいて、誰も懐妊せんって……。兄様、種無しなんやろか?」
旭がポツリと呟いた。
阿茶局はそっと視線を逸らし、茶々は苦笑する。
「そればかりは、神仏のみぞ知る……ではないでしょうか。」
於孝はなんとも言えぬ顔で笑っていた。
戦国の正室に求められるものは、ただ一つ。
――跡目。
自分が産めねば、側室に産ませる。 家の存続のために。
(夫の世話だけでも大変やのに、愛人の面倒まで見るとか……。寧々様も、織田の義伯母上様も……ほんま大変やな。)
茶々は、どこか他人事のように思った。
***
雪の降る二月になっても、家康は上洛しなかった。
「雪降ってんじゃ、しょうがないよね〜。」
「そうですね〜。」
旭と阿茶局は、のんびりと言い合っていた。
だが、桜が咲き始めた四月になっても、家康は動かない。
「大坂は遠いからね〜。」
「すぐに向かえる距離ではありませんし。」
裏庭の畑で薬草の種を撒きながら、そんな話をする。
最近では、家康の側室・お久も手伝いに来るようになっていた。
「御前様、これぐらいでよろしいでしょうか?」
「ありがとう、お久。少し休みましょうか。」
裏庭の小さな屋敷で、三人は軽く昼餉を取ると、誰かがこちらに走ってくるのが分かった。
「御前様……!」
息を切らしながら、阿茶局が真っ青な顔をして飛び込んできた。
「どうされたのです?そんな顔をして……。」
「お茶々……白湯を。」
「はい。」
茶々は手早く白湯を淹れて、阿茶局に差し出した。
阿茶局はそれを受け取り一口含んで、ようやく息をついた。
「……御前様。」
一拍。
「あの、御母堂様が……大政所様が――」
言葉を選ぶように、ゆっくりと告げる。
「御前様のご機嫌伺いと称して、駿河へ参られると……。」
「「「………………はぁ?」」」
三人の声が、綺麗に重なった。
「すでに大坂をご出立されたとの知らせが……。」
その言葉を聞いた瞬間、茶々が弾丸のように走り出した。
「お茶々!?」
旭たちが慌てて追いかける。
「だ、誰かーーー!!」
旭の叫びが廊下に響く。
「お茶々を止めてちょぉーーー!!」
その頃、本丸では、家康のもとに重臣たちが集められていた。
「サルめ……!」
「御前様だけでなく、母まで差し出してくるとは!」
「やはり成り上がりは違うな!」
怒号が飛び交う。
名目は“御機嫌伺い”。
だが実態は――人質。誰の目にも明らかだった。
家康は、上座で腕を組み、目を閉じたまま動かない。
「……ん?」
ふと、顔を上げる。
「何か聞こえんか?」
重臣たちが耳を澄ますと、遠くから、悲鳴、怒鳴り声。そして何かが壊れるような音。
「……何の騒ぎだ?」
「某が見て参ります。」
井伊直政が一礼し、部屋を出る。
だが、中々戻ってこない。
代わりに、言い争う声が聞こえてきた。
「……万千代、何をしておる。」
本多忠勝も立ち上がり、加勢に向かったが、彼もまた戻らない。
代わりに言い争う声が大きくなる。
沈黙。
そして、家康はゆっくりと立ち上がった。
「……見に行くか。」
小姓だけを伴い部屋を出て、騒ぎの元へと向かった。
「姫様っ!おやめ下さいっ!」
「お茶々!なんもアンタが兄様のせいで手ぇ汚さんでええんよ!」
「一の姫っ!何卒!」
「落ち着かれよっ!」
「うっさいなっ!!」
茶々が怒鳴る。
「早よう馬引け言うてるやろっ!!」
「なりませぬ!」
「大坂まで何日掛かると思っているのですか!」
「黙れぇぇぇ!!」
ついに完全にキレた。
「あのサルーーー!!禿げ鼠がぁぁぁ!!」
足でダンダンっ!と廊下の板を打ち付ける。
「あんの阿呆はぁぁぁあああっっ!!!旭様だけやのうて、ババ様まで何や思うとるんや!!」
そして、顔を真っ赤にして絶叫。
「私があの阿呆の息の根止めたるーーー!!!」
もはや、収拾不能である。
「……何じゃ、これは。」
家康の視界に飛び込んできたのは、怒り狂って近江訛りで絶叫する茶々。(顔が可愛い分、余計に怖い)
その茶々を羽交い締めにする萩乃とお久。
必死に宥める旭と於孝。そして、止めに入る直政と忠勝。
完全なる修羅場である。
「旭殿、これは……。」
旭が家康に気付いて振り返る。
その顔は戸惑いと疲労感が漂っていた。
「殿、その……申し訳ございません。」
旭が額に手を当てる。
「あの子が、大坂へ行って兄様の首を取ってくると……。」
「はぁ?」
一瞬の沈黙。
「あ、は……あははははは!」
家康は素で大笑いした。
「一の姫、何とも勇ましいな!」
「笑ってる場合ですか!!」
「いやぁ、すまんすまん。」
まったく悪びれず、家康は茶々へ歩み寄る。
「一の姫。」
両肩に、そっと手を置く。
「落ち着け。今から大坂へ向かったところで、殿下の気が変わるとは思えぬ。」
一拍。
「それに、大政所様はすでにこちらへ向かっておる。其方が居らねば……心配されるであろう?」
幼い娘に言い聞かせるように、家康は優しく告げる。
すると、ぴたりと茶々の動きが止まった。
「……ごめんなさい。」
ぽつりと、消え入りそうな声で呟く。
「旭殿は果報者であるな。」
家康はふっと笑う。
「ここまで主のために怒れる女房がおるとは。」
「ただの向こう見ずで、先走りなだけです。」
旭が即答する。
「ははは!確かに!」
家康は楽しそうに笑った。
「だが……先ほどの姿。……浅井備前守に似ておられたわ。」
茶々は、少しだけ顔を伏せる。
「さて。旭殿……。」
家康は振り返る。
「此度の件、話さねばならぬことがある故。本丸へ参ろう。」
「はい。殿、お茶々と阿茶局、お久も――」
「構わぬ。」
「ありがとうございます。」
「於孝と萩乃は戻りなさい。」
「「はい。」」
「……その前に。」
旭が茶々を見る。
「きちんと謝りなさい。」
「……。」
茶々は一歩前へ出る。
「殿。」
深く頭を下げる。
「お見苦しいところをお見せ致しました。
井伊様、本多様も……申し訳ございません。」
今になって、恥ずかしさが押し寄せる。
(……やらかした。ああー!!……穴があったら入りたい。)
「一の姫はお優しい。」
直政が微笑む。
「某でも、同じことをしていたと思います。」
「うぅ……。」
「お気になさらず。」
「お前もすぐ突っ走るからな〜。」
忠勝が横から茶々を見る。
「いま言わなくても良くないですか!?」
直政が即ツッコミ。
「いやいや、褒めてんだよ!」
忠勝はわしゃわしゃと直政の頭を撫で回す。
「やめて下さい!」
騒がしい二人を横目に、忠勝が茶々に向き直る。
「流石は浅井家長!」
「もし貴女様が男なら、我が宿敵でしたな!」
「……岡崎の三郎様も、同じことを仰っていました。」
「ほう?」
忠勝がニヤリと笑った。
「三郎様も、やはり三河武士よ!」
「アイツも喧嘩っ早いからなぁ……。
五徳や安土の御方様が苦労しておらねば良いが。」
家康のボヤキが廊下に静かに消えた。




