歯止めが消えた
茶々が秀吉にセクハラされた、次の日
徳川邸には、前日の騒動が嘘のような穏やかな空気が流れていた。
「わっははははは!!御台様も中々に豪気であられる!」
豪快に笑うのは、今川氏真である。
「……あの時は、頭に血が上ってしまって。
お恥ずかしいわ。」
旭は苦笑しながら答えた。
昨日の一件を聞きつけ、氏真は二人を案じて徳川邸を訪れていたのだ。
ひと通り事情を聞き終えた氏真は、なおも楽しそうに笑う。
「いやはや……。大政所様と大納言様が亡き今、あの太閤殿下を諌められるのは、北政所様と若政所様、秀次様の御母堂……それに御台様ぐらいのものじゃろうて。」
一拍置き、ため息混じりに続ける。
「しかし……殿下の女狂いには困ったものよ。衰えるどころか、拍車が掛かっておる。」
「やはり……そうなのですか?」
茶々が眉をひそめる。
「うむ。甲斐姫だけではないぞ。儂の従妹……上杉の菊姫や、伊達の愛姫……それに、この伏見に来ておる諸大名の奥方にまで、ちょっかいを出しておると聞く。」
「あんの、たわけぇぇぇー!!」
旭、即ブチ切れ。
「昨日のうちに黄泉の国に送っておけば良かったわ!!」
「……あの、御屋形様。」
ふと、茶々が首を傾げる。
「殿下は何故、伏見におられるのでしょう?
てっきり淀城に居られるとばかり……。」
「ああ……。」
氏真が、わずかに言い淀む。
「……聞いておらんのか?」
「?……何かあったのですか?」
氏真は軽く咳払いをし、二人へと身を乗り出す。
そして、扇子で口元を隠しながら小声で告げた。
旭と茶々も、自然と顔を寄せる。
「淀殿と喧嘩したんじゃと。」
「「……は?」」
「殿下が他の女に目を向けるものだから、淀殿がヤキモチを焼いての。」
さらに続ける。
「殿下はそれが嬉しゅうなってな……調子に乗って、淀城の侍女を口説いたそうじゃ。」
一拍。
「それを淀殿に見られてな。ほんで、大喧嘩。」
「「………」」
「……それで、淀城を出て伏見へ。」
沈黙。
「「………しょうもなっ!!」」
完全に一致した感想だった。
「うむ。誠にしょうもない理由じゃ。」
氏真も深く頷く。
「弥助殿から聞いた時、儂も二、三度聞き返したわ。」
「あら、弥助義兄さんから?」
「うむ。」
氏真は肩をすくめる。
「太閤殿下が突然淀から伏見へ移られたゆえ、左大臣様に伺ったところ……弥助殿がこっそり訪ねてきてな。その時に聞いたのじゃ。」
「弥助殿……吉房様がですか?」
「そうそう。」
旭がくすりと笑う。
「義兄さん、元は馬借やったからね。
人の懐に入るのが上手いのよ。聞き上手でもあるし……。」
(……なるほど。)
茶々は内心で頷く。
(戦国の馬借って、情報の集まる場所でもあったっていうしね。)
吉房は秀次の家老として政務にも関わっているが、どこか頼りなさが残る。
だが、情報収集となると話は別だ。
その手腕は、忍び顔負けとも言われている。
(……意外と有能なのよね、あの人。"秀吉=忍者説”……もしかして、こういうとこから派生したんじゃないの?)
そんなことをぼんやり考えていると、廊下の向こうから、慌ただしい足音が近づいてきた。
「……萩乃か?」
「いえ、萩乃は此度、江戸にて留守を任せておりまする。」
今回、茶々は杏を気遣い、萩乃を江戸に残してきている。
「失礼いたしますっ!」
バンッ、と勢いよく障子が開いた。
現れたのは旭付きの高級侍女、八重であった。
「お八重、どうしたん?そんなに慌てて……。」
「い、急ぎ……御台様と御屋形様のお耳に、入れたきことが!」
その様子に、場の空気が一変する。
氏真が、一呼吸置いて八重へと向き直った。
「……申せ。」
「ご静養中の道休様が、ご危篤との知らせにございます。先ほど、急使が……。」
「道休様が!?」
旭の声が上ずる。
「ひと月前にお会いした時は……まだまだお元気そうであられたのに……。」
足利幕府最後の将軍、足利義昭こと道休。
年明けより体調を崩し療養中とは聞いていたが、
つい先日まで「大事ない」との報せが届いていたばかりだった。
それが、危篤。
氏真の表情も、明らかに変わる。
「……道休様は、今は淀城下におられたな。」
短く言い、立ち上がる。
「儂が淀へ参る。御台様とお茶々は伏見に残られよ。」
「「はっ!」」
氏真は控えの侍従たちを引き連れ、足早に去っていった。
それから一週間後、伏見に訃報が届く。
道休、逝去。
秀吉自らが屋敷へ駆けつけ、名医を集めさせたが回復は叶わなかった。
最期は、豊臣一門、そして足利の縁者に見守られてのものだったという。
その臨終の時まで、道休は養女である淀殿のことを案じていたと伝えられた。
葬儀は秀次の主導により、「最後の将軍」に相応しい盛儀として執り行われることとなる。
「……道休様、確か五十八であられたか。」
旭がぽつりと呟く。
「ですが……あまりにも急でございます……。」
西郡殿の声も重い。無理をしていた、という話もない。それでも、この急変。
誰もが違和感を覚えていた。
「……なれど。」
茶々が小さく口を開く。
「道休様が身罷られたということは……。」
「淀殿を窘める者が、いなくなったということか……。」
その言葉に、誰も返せない。
(……この先、どうなるんだろ。)
胸の奥に、言いようのない不安が広がる。
お品の静かな声が廊下から聞こえた。
「失礼いたします。御台様、三好様がお見えにございまする。」
「三好様……ああ、弥助義兄さんか。お通しして。」
やがて部屋へ入ってきた吉房は、どこか張り詰めた表情をしていた。
「御台様……いや、旭よ。」
一同を見渡し、低く言う。
「西郡殿も、お茶々も……よう聞いてちょう。」
「はい。」
「弥助義兄さん、どうしたん?」
吉房は、懐から一つの薬袋を取り出した。
それを、静かに畳の上へ置く。
「……もしかしたら、道休様は。」
一拍。
「毒を盛られたかもしれん。」
「「……は?」」
空気が凍る。
「道休様が倒れる前、儂にこれを渡してきたんや。」
薬袋を指で押さえながら、続ける。
「この薬を煎じて飲み始めてから、調子が悪くなった、と。」
さらに低く。
「もし自分に何かあったら、これを治兵衛か徳川様、前田様へ渡せ、と。」
「……なんと。」
誰も、軽々しく言葉を挟めない。
「儂は、その時言うたんや。」
吉房は奥歯を噛み締める。
「今日からは飲んだふりして、捨てるように、と。」
拳が、わずかに震える。
「儂が訪ねてからは……飲んでおらんはずやった。」
だが、その先は言葉にならなかった。
(……まさか。)
茶々の背筋に、冷たいものが走る。
(道休様は、病ではなく……。)
一瞬、呼吸が止まる。
(毒で……殺された?)




