第十三話 葡萄畑と言葉
初秋の陽は穏やかで、葡萄の実はふっくらと張り、ブルゴーニュの丘は静かだった。
ギベールはかがみ込み、葡萄の一房を持ち上げ、独り言のように呟いた。
「今年は甘い」
彼の土地の言葉、ブルゴーニュ語で。
すぐ背後に立つ男には解らない言葉だ。
「何を言っている?葡萄狂いの坊さん」
ブカである。
支配者モンゴル軍のアルバン(十人隊長)。
頑丈な体。太い首。広い肩。細く鋭い眼、ゴツい頬骨。
ブカという名の意味「雄牛」が似合い過ぎる男だ。
そして、ブカはモンゴル語しか話さない。
「葡萄狂いの坊さんはひどいなぁ」
「じゃぁ書き魔か?」
「まぁ、それは認める。我ながらしょうがない」
ブカとはもう長い付き合いになっていた。
お陰で短い会話のやり取りならモンゴル語も解るようになった。
ギベールがまだモンゴル語をほとんど理解できなかった頃は試行錯誤の連続だった。
例えば...
ギベールは自分の胸を掌でパンパン叩いて、
「私」と言った。
ブカは意味を理解しない。
ギベールは再度胸を叩いた。
「私は?」
ブカはふむふむと頷き納得して答えた。
「ラマ」
モンゴル語で「私」は「ラマ」と判断したギベールは『私=ラマ』と記した。
それからしばらくして「私」は「ビ」だと判明し、書き改めた。
そして、「ラマ」は「僧侶」の意味だと判った。
ギベールの「私は(何と言うのだ)?」に対して、
ブカは「(お前は)ラマ(坊さんだ)」と答えていたのだ。
ある時、ギベールは葡萄を手に持って尋ねた。
「これは何か?」
当然、モンゴル語は喋れないのでブルゴーニュ語でだ。
ブカは眉をひそめ、
「コレワナニカ?コレワナニカ」とギベールの問いを真似る。
いやそうじゃない。
ギベールがやや大きな声で「これは何か?」と手に持った葡萄を上下させて見せた。
ブカは葡萄を見る。
ギベールを見る。
再び葡萄を見る。
そして答えた。
「ジムス」
ギベールは『葡萄=ジムス』と書き留めた。
ギベールは私家版のモンゴル語辞典を作り始めていた。
主な取材相手はこのブカだ。
ブカは余暇に修道院に来ては、ギベールが書きものをする横でワインを飲んだ。
モンゴルの支配によってではあるが平和が訪れ、十人隊長は暇らしい。
『葡萄=ジムス』と記した翌日、別のモンゴル兵に「ジムス」と言うと、兵は首を傾げる。
隣にいたもう一人のモンゴル兵が「おい、この爺さん、モンゴル語で言ってるよ」
モンゴル語は解らないが、なぜかこういう会話は何を言っているのか判るものだ。
モンゴル兵が「ジムス」と言って、道端の生垣に実っているブラックベリーの実を指さした。
後日また、他の兵に「ジムス」と聞くとニワトコの実を指さした。
どうもおかしい...
どうやらジムスとは葡萄ではなくて「果実・実」のようだ。
ギベールは葡萄を掲げてブカに見せた。
「エネ・ユゥ・ヴェ?」(これは何だ?)
ブカは満足げに頷いた。
「ジムス」
「ジムスは果実だな?それはわかった。葡萄は?」
「ジムス」
「ジムスの何なのか聞いている」
「食える」
「概念の問題ではない」
「?何を言っているかわからんが食える果実の話だろう?」
別の日。
ギベールはパンを指さした。
「これは何か?」
ブカは少し慣れた顔で答える。
「ホルホグ」
後に判明した。ホルホグは「焼いた物」らしい。
やはり分類の段階が違う。
数ヶ月が過ぎた。
ギベールはかなりの数の単語を蒐集していた。
発音は不正確で語順も怪しいが、通じることが増えていく。
長い付き合いになるうちに、何とか会話が成立して、憎まれ口を叩き合えるくらいにはなった。
そうして何年が過ぎただろうか。
ギベールはいつものように書き机の写本に向い、慎重に文字を書き込みつつ、ブルゴーニュ語でつぶやいた。
「ブカ、お前の回答にはいつも悩まされる」
ギベールの背後で雄牛のように肉厚の男、ブカが立って、書き込まれていく文字を眺めていた。
「何か言ったか?」ブカはブルゴーニュ語は理解できない。
ギベールはカタコトのモンゴル語で言い直した。
ブカは笑った。
「悩まされるだと?十分な答えだ」
「いや、精度に問題がある。パンを『焼いた物』と言ったり」
「その通りだろう」
「私は正しい辞書を作りたい」
「通じれば良い」
ギベールは苦笑した。
かつて、この男の発する言葉は、意味を伴わない雑音でしかなかったが、
今では、短い会話なら何とか意味が分かる。
「しかし、お前さんのせいで辞典が歪んだ」
「名誉だな」ブカがわざと意地悪な笑みを浮かべる。
「最初の頃は本当に勘違いばかりだった」
「今は何とかなっているだろう?」
「まあそうだな」
「坊さん、あんたはしぶとい」
「ありがとう」
「しぶといあんたのワインは美味い」ブカは豪快に笑った。
「それにしても、あんたは妙な坊さんだ」
「お前さんにだけは言われたくないなぁ。暇さえあれば、こんな鄙びた修道院の爺さんに会いに来るような、妙なモンゴル人にはねぇ」
二人して「へっへっへ♪」と顔を歪めて笑った。
そして、ブカが珍しく真面目な眼差しで遠くを見つめて言った。
「敵の言葉を集めて何になる」
ギベールは静かに答えた。
「理解できる」
「何を?」
「少なくとも、解らぬまま憎むのを避けられるかもしれない」
ブカは一瞬だけ黙り、やがて笑った。
「真理かもな」
二人はうなずき合った。
征服者と征服された者。
理解できる言葉はまだ少ない。
それでも会話は成立し、冗談めかした憎まれ口すら日常になる。
異文化との接触、異言語の理解は手探りと試行錯誤の積み重ねですね。




