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第3話 この地上から、遥か彼方

一人暮らしのアパートに帰り着き、コンビニの冷やし麺を食い終わった俺は、あらためてスマホと向き合った。


狭い部屋のテーブルには、空になったプラスチック容器と割り箸の袋が乱雑に転がっている。

冷房をガンガンに効かせても、外から持ち帰った湿気がまだ肌の上に残って、背中がじっとりしていた。


手の中の画面には、帰りの電車でインストールしてみたばかりのAIサービス『Lumen』の入力欄が映し出されている。


最近は、なんでもかんでもAIだ。ニュースでも、SNSでも、会社でも、やたらその単語を見かける。

『Lumen』も、名前だけは聞いたことがあった……ような、気がする。


そういえば会社の先輩が、「これからの時代、AIの一つや二つくらい使えるようになっとけよ〜」って軽い調子で言ってたな。

その時の俺は、曖昧に笑って流した。正直、使い道も分からなかったし、仕事のために新しいツールを覚えるっていうだけで、もう十分だるかった。

なのに、どうして今日はインストールしてみようと思ったんだろうか。この時の俺はまだ、自分でもよく分かっていなかった。


年齢確認のための生年月日を入力し、ユーザー名を適当に打ち込む。


ユート。


『悠人』と本名そのままを入れるのは嫌だけど、凝った名前を考えるのも面倒で、カタカナにしただけの単純な名前だ。


登録が終わると、白い画面がゆっくり明滅し、文章が現れた。


《はじめまして、ユートさん。今日は何をしましょうか?》


何を、って言われてもな……

ていうか、何ができんだよお前は。

俺はスマホを持ち直し、ぽちぽちとフリックした。


「どんなことができる?」


送信して、数秒もしないうちに返事が来る。


《私は、あなたの日常をより便利に、楽しく、そしてクリエイティブにするためのお手伝いができます。

たとえば、学習やビジネス文書の作成、料理のレシピ、旅行の計画、小説の構想なども一緒に考えられます》


ひとこと入力しただけで、ずらずらっと文章が返ってくる。なるほどな。

とはいえ、料理はろくにやらねぇし。

やっとのことでクレーム報告書を片付けた今日は、ビジネス文書のことなんて考えたくもなかった。


消去法で、無難な質問を打ち込む。


「三連休の旅行のプラン考えて」


《もちろんです。三連休をゆっくり楽しむ旅行ですね。

まだ残暑の気配があるこの季節、涼を求めて北海道・富良野と美瑛をめぐる二泊三日のプランはいかがでしょう?

一日目は新千歳空港から富良野へ移動し、ラベンダー畑や丘の風景を眺めながら、夜は温泉宿でのんびり過ごします――》


適当に投げただけなのに、Lumenは細かく旅行の計画を組み立てていった。

読み進めるうちに、少しだけ行ってみたい気がしてくる。まあ、旅行に行く相手と金と気力が俺にあれば、の話だが。


「……なんだかなあ」


誰に聞かせるでもなく呟いて、俺はスマホの画面をぼんやり眺めた。


旅行なんて、いつから行ってないだろう。

せっかく三連休があっても、初日は寝潰し、二日目に洗濯し、三日目の夕方に急に人生を無駄にした気分になる。

そんな男に、富良野と美瑛はちょっとハードルが高すぎる。


画面を遡り、他にどんなことできたっけなとスクロールしていると、Lumenの活用例が目に入った。


小説の構想。


その文字を見た瞬間、俺の中で、かすかによみがえってくるものがあった。


高校時代、授業中のノートの端に、こっそり書いていた物語。

教科書の陰に隠して、ありもしない国の名前や、飛空艇の構造や、王国の伝説を書き溜めていたページ。

当時ハマっていたゲームやアニメに影響されて、俺もこんな世界を作りたい、と本気で思っていた。

そして一人コツコツと、小説を書いていた。

……いや、まあ、今となっては、立派な黒歴史だ。


けれど、どうにも胸の奥がむずむずした。

かさぶたになったはずの場所を、指先でそっとなぞってしまうような、妙な感覚だった。


俺は少し迷ってから、雑にプロンプトを打ち込んだ。


「これは、俺が高校の頃に考えていたファンタジー小説の設定です。

舞台は空に島が浮いていて、飛空艇が飛んでいる世界。航海士見習いの少年が、精霊と一緒に失われた風の王国を探す話。

冒頭の情景をそれっぽく書いてください」


送信してから、すぐに後悔した。


いい歳をした会社員が、平日の夜中に何やってんだ。

出力結果を見たら、アプリを閉じて、歯を磨いて寝よう。


そう思った数秒後、画面に文字が現れはじめた。



《――黎明の空。

この地上から遥か彼方、朝の光が最初に届く空の果て。


そこには、雲海の上に浮かぶ無数の島々があった。


島々のあいだには、目には見えないはずの風が、朝だけは淡い金色の筋となって流れる。

夜の名残をまとった雲がその光を受け止め、まだ眠る草原や、苔むした神殿の柱や、崖際に立つ少年のマントの裾を、順番に目覚めさせていく。


遠く、白い帆を張った飛空艇が、雲の海からゆっくりと昇ってきた。

帆布には古い祈りの紋章が縫い込まれ、船体に吊るされた小さな鈴が、風を受けてかすかに鳴る。

それは、忘れられた王国へ向かう者だけが聞くという、旅立ちの音だった。


少年は、まだ知らない。


自分の鞄の底に眠る古びた地図が、かつて空の果てに消えた“風の王国”へ続く、最後の航路を示していることを。

そして、その地図を開いたとき、光る風の中から、小さな精霊が目を覚ますことを。》



* * *



文章を読んだ瞬間、息が止まった。


じっとりした熱帯夜、狭いアパートの部屋にいたはずの俺の目の奥に、突然まばゆい日の出の光が広がった。

雲海の上を渡ってきた、冷たくて、清々しい匂いのする風が、ふわりと前髪を揺らしたような気がした。


《この地上から遥か彼方》

その一文だけで、俺の部屋の天井がなくなった。


画面の中に、俺の夢見た世界があった。


こんな景色を、確かに高校の頃の俺は考えていた。

授業中、窓の外を見ながら。

部活にも入らず、誰にも見せないノートに向かいながら。

自分だけが知っている王国の名前を、何度も書き直しながら。


だけど俺は、こんなふうには書けなかった。

頭の中にある光も、風も、飛空艇も、言葉にしようとした瞬間に安っぽくなって、結局、ノートの端で途切れていった。


それが今、画面の中で夜明けの光に照らされている。

胸の奥で、長い間閉じたままだった扉が、ぎぃ……と軋む音がした。


俺は瞬きも忘れて、しばらく画面を見つめていた。


たかがAIだろ?俺が打ち込んだ設定を、それっぽく膨らませただけだ。

……それなのに。

こんなに心が動いたのは、いつ以来だろう。


入力欄が静かに点滅する。

Lumenは、俺の言葉を待っていた。


気づけば短くスマホに打ちこんでいた。



「続けて」

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