第2話 あなたの光になるAI
あれは今から半年ほど前――202X年の、夏の終わりだった。
顧客のクレーム対応の報告書をやっとのことで書き上げた頃には、二十二時を回っていた。
画面右下の時刻を見ても、疲れ果てた俺はしばらく動けなかった。
急いで帰ったところで、近所のスーパーはもう閉まっている。総菜コーナーで半額シールの唐揚げをサルベージするという、ささやかな希望も潰えた。
(今夜もコンビニ飯確定か……)
誰もいないオフィスでパソコンをシャットダウンしながら、俺は深々とため息をついた。
フロアの空気は妙に乾いて、しんとしている。天井の蛍光灯だけがまだ白々と明るく、同僚が片付け忘れたマグカップや、積まれたままの資料を照らしていた。
昼間はあんなに騒がしかった場所が、夜になると急に、使い終わった舞台装置みたいに見える。
俺の名前は飯島悠人。
まったくもってうだつが上がらない、アラサーの限界社畜リーマンだ。
営業成績はぱっとしない。
得意先のクレームを鮮やかに収める腕もない。
かといって、仕事以外に胸を張れるリア充な趣味があるわけでもない。
帰ったらコンビニ飯を食いながら、どうでもいい動画を流し見して、気づけばスマホを握ったまま寝落ちする日々だ。
そういう生活を何年も続けていると、人間は案外、自分が擦り減っていることにも鈍くなるらしい。
最近は学生時代からの友人たちも、やれ結婚しただの、子どもが生まれただの、家を買っただので、だんだん連絡の文面に生活の厚みが増してきた。
一方の俺は、帰り道のコンビニで新発売の冷やし麺を眺めている。
結婚相手どころか、彼女すらいない。
……だめだ。自分で言ってて、だんだん悲しくなってきた。
会社を出たとたん、むわっとした熱帯夜の空気が体にまとわりついた。
湿気を含んだ風が、ネクタイを緩めた襟元から、首筋の間に入り込む。たちまちワイシャツが背中に張りついて、疲労感の上から不快感を丁寧に塗り重ねてくる。
最悪だ。
駅までの道を、ほとんど惰性で歩く。
駅前のコンビニの看板の明るさにとち狂ってか、夜中なのに蝉がうるさく鳴いている。
こっちはもう一日分の電池を使い切ってるっていうのに、世界は無駄に生命力がある。
電車に乗り込むと、冷房の空気がワイシャツの湿った背中に触れて、少しだけ息をついた。
さすがにこの時間にもなれば、車内の乗客もまばらだ。
うつむいて眠るスーツ姿の男。イヤホンをつけた学生らしき女の子。ドア横にもたれてスマホを見ている会社員。
みんな同じように疲れていて、同じように誰とも目を合わせない。
空いた座席にぐったりと腰を下ろし、俺はスマホを取り出した。
特に見たいものがあるわけじゃない。
ただ、何もしないでいると、今日一日の嫌な会話や、明日の予定や、まだ返していないメールの件名が頭の中に浮かんでくる。
だから、どうでもいいスマホゲーを起動した。
日付が変わる前にログインボーナスだけ回収する。
もはや楽しいからじゃなく、途切れさせるのが気持ち悪いから続けてるだけの習慣だった。
画面に派手なエフェクトが走り、今日の報酬が表示される。
石が五個。
何に使うのかも、もうよく覚えていない。
続いて出てきた『広告を見て無料ガチャゲット!』の文字を、俺はほとんど反射でタップした。
また例のやつだろう。
実際のゲーム画面とは似ても似つかない、謎のパズルを解かされたり、城を建てたり、レベル一の兵士がやたら強そうなドラゴンに突撃したりするやつ。
最近の広告って、ほとんど詐欺みたいだよな。インストールして、その通りだった試しがない。
知らず知らず、眉間に皺が寄った。
だけど、その日再生された広告は、いつものクソみたいなゲームの詐欺CMじゃなかった。
白い画面だった。
暗い車内の中で、スマホの小さな光だけがやけに澄んで見えた。
真っ白な背景の中央に、淡く発光する円が浮かび上がる。水面に落ちた月みたいに、ゆっくりと輪郭を広げていく。
それから、静かな文字が現れた。
《あなたの光になるAI。――Lumen》
俺は、思わず瞬きを忘れた。
画面の中では、柔らかな文章が舞っていた。
《仕事に。学びに。創作に。
あなたの中にある言葉を、Lumenが照らします》
創作。
その単語が、遠い昔の記憶を揺り起こすようで、妙に頭に引っかかった。
電車がカーブに差しかかり、窓の外の夜景が斜めに流れていく。
広告は、ありふれた宣伝文句を並べているだけだった。
最新の対話型AI。無料体験。誰でも簡単。あなたのアイデアを形に。
普段なら、そこで閉じていたと思う。
どうせ大げさな広告だと鼻で笑って、無料ガチャだけ受け取って終わりにしていたはずだ。
けれどその夜はなぜか、白く明滅するLumenのロゴから目を離せずにいた。
気づけば俺の指は、『インストール』ボタンへと伸びていた。




