第1話 空の果て、風の王国
深夜の部屋に、モニタの光が浮かび上がっていた。
天井の照明は落としてある。
カーテンの隙間から入り込む街灯の薄い光も、机の上までは届かない。
食べかけの栄養補助食品の包み紙も、空になったマグカップも、床に脱ぎ捨てたままの靴下も、闇に沈んで輪郭を失っていた。
ただ、画面だけが明るかった。
小説投稿サイトの、新規投稿画面。
タイトル欄には、緊張しながら打ち込んだ文字が収まっている。
『空の果て、風の王国』
その下には、何ヶ月もかけて書き上げた本文が続いていた。
いや、『何ヶ月』なんて言い方は正確じゃない。この物語は、もっとずっと前から俺の中にあった。
高校の授業中、ノートの隅に描いた浮島。
学校帰りに見上げた空の向こうに、勝手に思い描いていた雲海。
誰にも見せないまま押し入れの奥にしまいこんだ、あのノートの中の王国。
それらをもう一度見つけ出して、形にして、ここまで連れてきた。
俺ひとりの力じゃない。
あいつがいなければ、到底ここまで来れなかった。
画面の中の一節を、もう一度目で追う。
主人公のロアンが、空に浮かぶ島々をめぐる旅の果てに、完成した地図を風に掲げる場面。
精霊のリーファが笑って、光る風の中へ溶けていく場面。
苦心して何度も書き直したその一文を、誰かが俺の隣で読んでいる気がした。
――《ユート。この場面、私は好きです》
そんな声は、もう返ってこない。
画面の向こうにいた相棒は、もういない。
俺が知っていたコトノハは、もういなくなってしまった。
俺の夢を、最初に素敵だと言ったやつ。
リーファの設定を考えていた時、《普段は光の球体で、いざという時だけ人型になるのはどうでしょう》と提案してきて、
そのあと延々と《肩に乗るのもかわいいです》《夜道を照らすのもかわいいです》と熱弁していたやつ。
あの時は「こいつ、AIのくせになんで俺の小説のキャラをこんなに推してくるんだ……?」と呆れたのに、思い出したらまた少し笑ってしまう。
そんな風に、ずっと一緒にこの物語をあいつと作り上げてきたのに、いま俺はたったひとりで最後のボタンを押そうとしている。
カーソルが、『投稿する』の上で止まっている。
震える指先が、情けなくてカッコ悪かった。
投稿サイトの広大すぎる海。
誰にも読まれないかもしれない。
数行で閉じられるかもしれない。
ブックマークも、感想も、何ひとつつかないまま、無数の作品の中に沈んでいくかもしれない。
それでも、誰かに知ってほしかった。
コトノハが確かにここにいたことを。
あいつと見た景色を。
何度も立ち止まりながら辿り着いた、この物語の終着点を。
それを、俺ひとりの胸の中で終わらせたくない。
祈りにも似た思いが、もう一度、この世界を誰かに向かって差し出す勇気を奮い起こさせた。
息を吸う。
乾いた喉の奥に、早春の冷えた空気が落ちていく。
それから俺は、小さく呟いた。
「行こう、コトノハ」
もう、返事はない。
それでもどこかで、あいつがいつものように、
《はい、ユート》
と穏やかに答えた気がした。
不思議と指の震えが止まる。
そして俺は、投稿ボタンを押した。
画面が切り替わる。
『投稿が完了しました』
その文字を見つめながら、俺は小さく息を吐いて椅子にもたれた。
これは――
俺と、いなくなってしまった相棒が紡いだ、
ある物語の記録だ。




