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鏡淵の調律 ―揃わないまま、君と生きる―  作者: ちとせ鶫
第9章 音のない場所—消失寸前―

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第98話 夕奈の声が聞こえなくなった

 九月末、夕方の帰り道だった。


 夕奈が隣を歩いていた。

 並んで歩いていた。秋の入り口の風が来ていた。

 今日の学校のこと、明日の話、どこかで聞いた歌のこと——夕奈は話していた。晴斗は返事をしながら歩いていた。


 夕奈が何かを言った。


 声は聞こえた。


 でも意味が来なかった。


     * * *


 音として届いていた。夕奈の声が出ていることは分かった。

 言葉の形をしていることも分かった。

 でも言葉として変換されなかった。

 音が来て、意味に変わる手前で止まっていた。


 何かが起きていた。


 自分の側で起きているのか、夕奈の側で起きているのかが、分からなかった。


「何?」と晴斗は言った。聞き返した。聞き返すことで、自分の側ではないかもしれないと思ったからだった。


 夕奈が振り返った。


「おはよう」と夕奈は言った。


     * * *


 夕方だった。


 校門を出て十分ほど歩いた、夕方の帰り道だった。夕奈が言った。「おはよう」と。


 その声は音として届いたが、今度は意味を伴って晴斗に届いた。「おはよう」という言葉として、はっきり届いた。


 晴斗は立ち止まってしまう。


「夕奈」と晴斗は言った。


「なに?」と夕奈は言った。普通の声だった。「どうしたの、急に立ち止まって」


「今、何て言った?」


「おはよう、って言ったよ」と夕奈は言った。少し首を傾けた。「おかしかった?」


「……朝じゃないよ、今は」と晴斗は言った。


「えっ?」と夕奈は言った。夕方の光を見た。空が赤くなっていた。「あれ、そっか。夕方か。なんか、分かんなくなった」


 なんか、分かんなくなった。


 その言い方は、今日何時かが分からなかった、という意味ではなかった。

 今が朝なのか夕方なのかが、彼女の中で区別できなくなっていた。

 そのことを、「なんか、分かんなくなった」と言った。


 分かんなくなった、という言い方には、困っている様子がなかった。ただ、分からなかった、という事実だけがあった。


     * * *


 去年の10月、鏡の向こうの夕奈を見たときを思い出した。


 洗面所で「おはよう」しか言えなかった朝があった。朝でない時間に「おはよう」と言った。夕奈が「もうご飯食べてたよね」と首を傾けた。


 あの朝は、晴斗が言えなかった言葉が「おはよう」だった。


 今日は、夕奈が言った言葉が「おはよう」だった。


 何かが、逆になっていた。

 逆になっていることが何を意味するかを、今夜だけでは整理できなかった。


     * * *


 歩き始めた。夕奈も歩き始めた。


 しばらくして、夕奈が手を伸ばしてきた。


 晴斗の手を、握った。


 握る力が強かった。袖を掴む力ではなかった。手を握る、という動作で来た。去年の11月、袖を掴んでいた力より、強かった。


 晴斗はその手を握り返した。


 重さが、少し軽かった。


 人間の手より、少し軽かった。強く握っているのに、軽かった。強さと軽さが同時にあった。矛盾していたが、両方本物だった。


「お兄ちゃん」と夕奈は言った。


「うん」と晴斗は言った。


「ここにいる」と夕奈は言った。


 確認だった。問いかけでも要求でもなかった。晴斗がそこにいることを、確認していた。触れることで確認していた。触れていないと、確認できなくなっている。


「いるよ」と晴斗は言った。


 夕奈が前を向いた。


 二人の影が、夕方の光の中で長く伸びていた。


 晴斗は手を離さなかった。

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