第99話 ズレたまま繋ぐ
十月初旬の放課後、見知らぬ大人に呼び止められた。
昇降口を出たところだった。
夕奈はまだ教室に忘れ物を取りに戻っていた。一人でいた。
「瀬戸晴斗くん、少し時間をもらえる?」
振り返ると、女の人が立っていた。
四十代ほどか、五十代に近いかもしれなかった。
落ち着いた色のコートを着ていた。
学校の教師でも、保護者でも、事務の人でもなかった。
晴斗は初めて見た顔だった。
初めて見た顔なのに、奇妙な感覚があった。
この人が来るのを、どこかで待っていた気がした。
* * *
旧校舎の一室に通された。
使われていない部屋だった。窓に薄いカーテンがかかっていた。
外光が弱く、部屋の中は昼なのに少し暗かった。
椅子が二脚あった。向かい合わせに置かれていた。
「羽鳥陽子と申します」と彼女は言った。完全な標準語だった。「朔也くんとは別の立場から、夕奈さんのことを見ていました」
「別の立場というのは、どういう?」
「朔也くんは、ズレを修正しようとしています」と陽子は言った。「私は、別の考えを持っています。それをお伝えしたくて来ました」
晴斗は陽子を見た。朔也と別の立場。朔也が「修正」と考えているなら、陽子は何と考えているのか。
「聞かせてください」と晴斗は言った。
* * *
「今のあなたが持っている選択肢を、整理させてください」と陽子は言った。
「一つは、夕奈さんが向こうに移行するのを止めること——これは、もうできません。臨界点を超えています。移行のプロセスは、すでに始まっています」
晴斗は何も言わなかった。
「もう一つは」と陽子は続けた。「向こうに移行した夕奈さんを、こちらに連れ戻すこと——これは、まだ、できるかもしれない」
「できるかもしれない、というのは具体的に手段があるんですか?」
「方法があります」と陽子は言った。「ただし、確実ではありません」
「その方法というのは何ですか?」
陽子は少し間を置いた。窓の外から遠くの声が聞こえた。生徒の声だった。すぐに遠ざかった。
「ズレたまま繋ぐ、という方法があります」と陽子は言った。
* * *
「揃えるのではなく」と陽子は続けた。「ズレのまま共鳴させる。夕奈さんがこちら側とあちら側にまたがっているなら——その両方に届く声を、あちらに向けて発する」
「声ですか?」
「音楽、でも言葉でも、意図でも構いません」と陽子は言った。「ただし——」
また間があった。
「あなたの思念ノイズは、朔也くんの実験では『妨害因子』として扱われました。でも見方を変えれば、あなたの思念は鏡の演算に干渉できる。それはノイズではなく、調律として使える可能性があります」
調律。
晴斗はその言葉を聞いた。
ノイズだと言われてきた。エレーナに言われた。感情なく言われた。事実として言われた。それが今夜、別の名前で呼ばれた。
「私にできますか」と晴斗は聞いた。
陽子が、少し間を置いた。今日の会話の中で一番長い間だった。
「それは今答えません」と陽子は言った。「来週また来てください。今日はここまでです」
* * *
晴斗が立ち上がった。ドアに向かった。
手をかけたとき、陽子の声がした。小さかった。独り言と、晴斗への言葉の中間のような声だった。
「……難儀だわね」
出雲のイントネーションが、一瞬だけ滲んだ。
「でも、あなたしかいないだけに」
晴斗は振り返らなかった。聞こえたかどうかを、確認しなかった。聞こえたとしても、今それに何かを言う言葉がなかった。
ドアを開けた。
廊下は薄暗かった。夕方の光が廊下の端から差し込んでいた。
* * *
昇降口に戻ると、夕奈がいた。忘れ物を持って、晴斗を待っていた。
「遅かったね」と夕奈は言った。
「少し用があった」と晴斗は言った。
「何の用?」
「たいしたことじゃない」
夕奈は少し首を傾けて、それから「そっか」と言って歩き出した。
並んで歩いた。来週、陽子がまた来る。来週、また話を聞く。来週——
夕奈の手が、また晴斗の手を探してきた。
晴斗は手を出した。握った。軽かった。強く握った。
歩き続けた。




