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鏡淵の調律 ―揃わないまま、君と生きる―  作者: ちとせ鶫
第9章 音のない場所—消失寸前―

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第97話 ほのかに告げる

 九月も中旬になっていた。

 夏の思い出のように、まだまだ暑い日が残る。

 

 放課後の音楽室は人が少なかった。


 ほのかが譜面台の前に座っていた。オーボエが脇の椅子に置いてあった。晴斗が入ってきたとき、ほのかは楽譜を見ていた。


「少し時間あるか」と晴斗は言った。


「あるよ」とほのかは言った。楽譜から目を上げた。「どうしたの、そんな顔して」


「そんな顔?」


「なんか、深刻そうな感じの顔……」


 そういう顔をしていたかもしれなかった。

 ほのかのところに来るまで三日かかっていた。

 来ようとして、二回やめた。

 三度目でやっと来れた。


「全部、話す」と晴斗は言った。


     * * *


 覚悟を決めてここまで来た。

 意を決して、ほのかに話しをした。


 Δsのこと。臨界点を超えたこと。夕莉から聞いたこと。

 エレーナから聞いたこと。「俺の存在がノイズになっている」ということ。

 夕奈の声が出なかった朝。棚の扉を手が通り抜けたこと。

 動くなと言われていること。時間は有限だということ。


 全部、話した。


 ほのかは聞いていた。


 聞いている間、一度もオーボエに触れなかった。

 晴斗は途中でそれに気づいた。ほのかは話しながら指を動かす癖があった。

 オーボエがそばにあれば、指がそちらに伸びることがある。

 今日は伸びなかった。脇の椅子に置いてあるオーボエに、一度も、触れなかった。


 それが何を意味するかを、晴斗は考えた。考えながら話し続けた。


     * * *


 どれくらい経ったろうか。

 言えることはすべて、話し終えた。


 音楽室は静かだった。

 廊下から誰かの声がして、遠ざかった。


 ほのかがしばらく何も言わなかった。

 言葉を選んでいるのではなかった。受け取ったものを、自分の中に置いているような間だった。


「で?」とほのかは言った。標準語だった。「晴くんは、どうしたいの」


 晴斗は少し考えた。


「分からない。動くなと言われている。でも動かないことが正しいのかが分からない」


 ほのかが頷いた。頷き方が、同意ではなかった。

 晴斗はそれでいいんだ? と疑問を呈す頷き方だった。


「すぐには動かないことが正しいとして——」と彼女は言った。まだ標準語だった。「それが夕奈ちゃんのためになるとして——」


「うん」


 少し間があった。


「それでもあんたが動かないことを選べるかは、別の問題やんな?」


 大阪弁が出た。


 その質問がほのかの口を出た、その瞬間分かった。

 標準語から大阪弁に変わった瞬間が、はっきりと分かった。

 それがほのかにとって何を意味するかも、少し分かった。

 腹の底から来た言葉だった。

 変に考えて出した言葉ではない、本音の言葉。


「せやから言うとるんやけど——」とほのかは続けた。「動かないことが正解やとしても、晴くんが動かないでいられるかどうかは、また別の話やろ?」


「そうかもしれない」


「そうかもしれない、じゃなくて——」とほのかは言った。「そうやろ?」


 強かった。責めていない、

 でも、強かった。

 それ以外は認めないという、強い意思。


     * * *


 ほのかが立ち上がった。

 そして、脇の椅子からオーボエを取り上げた。初めて触れた。持ち方が、いつもと少し違った。持つというより、確認する持ち方だった。


「今すぐどうするとか、そういう話じゃないねんけど」とほのかは言った。


「うん」


「私は——」と言って、少し間を置いた。「いつでもオーボエを吹く準備はしているよ?」


 晴斗はほのかを見た。


 何を演奏するのか、どこで、どうやって、という続きはほのかの口からは告げられなかった。告げられなかったが、今日はそれでよかった。

 夕奈のための「準備がある」という言葉が、今夜この場から持ち帰るものとして十分だった。


「……うん」と晴斗は言った。


「帰ろか」とほのかは言った。関西弁で、軽く、言った。


 音楽室を出た。

 廊下に夕方の光が差し込んでいた。

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