第96話 夕莉から聞いた
九月初旬の夜、控えめにドアがノックされた。
晴斗は机に向かっていた。
教科書を開いていたが、内容は頭に入っていなかった。
ノックが聞こえて来て、顔を上げた。
「入ってもいいですか?」という声がした。
夕莉だった。
夕莉が自分から晴斗の部屋のドアをノックすることは、ほとんどなかった。
記憶を遡っても、片手に満たないくらいしかなかった。
その珍しい出来事が今起きていた。
「開いてるよ」と晴斗は言って、夕莉を自室に招き入れた。
* * *
夕莉が入ってきた。
そして椅子に座らず、部屋の中央に立っていた。
座る素振りがなかった。
「お兄ちゃんに話があるの」と夕莉は言った。
「うん」
「長くはなりません」
それから夕莉は一拍置いて、話し始めた。
感情を乗せなかった。
数値と事実だけを、順番に言葉として置いていく。
「Δsが+3.5を超えました。臨界点を超えています」
「その臨界というのは?」
「澪先輩が設定した境界値です。+3.5を超えると、境界の消滅が始まる——今の夕奈は、現実と異界の両側にまたがっている状態にあります」
晴斗は椅子に座ったまま、夕莉を見た。
夕莉は目を逸らさなかった。感情があるかどうかは分からなかった。
でも目を逸らさなかった。
「両側にまたがっている、という状態は……」と晴斗は言った。
「こちら側にいながら、向こう側にも足がかかっている。今は両方にいます。境界が完全に消えると——こちら側にいられなくなります」
* * *
その事実を噛みしめる二人のいる部屋は、静かだった。
「どうすればいい?」と晴斗は聞いた。
「澪先輩は、動くなと言っています」と夕莉は言った。「周囲が動けば、事象の進捗は加速します。晴斗が何かをしようとすれば——それ自体が、境界を乱す」
「動かないことが答えなのか?」
「今は」と夕莉は言った。「でも——」
少し間があった。夕莉にしては珍しい間だった。
「時間は有限です」
晴斗は天井を見た。見てから、また夕莉を見た。夕莉はまだそこに立っていた。
「そうだ。残された時間には限りがある。事象を止めるには、いつかは動かなければいけない」
「そうなります」と夕莉は言った。「でも今は動かないことが、夕奈のためになります」
「今は、というのは具体的にいつまでなんだ?」
「分かりません」と夕莉は言った。迷いなく言った。分からない、と言うことに迷いがない人間の言い方だった。「澪先輩も、そこは明言していませんでした」
* * *
言いたいことを告げ、夕莉がドアの方に向きかけた。
そこで振り返った。
「お兄ちゃん、一つだけ聞いてもいいですか」
「何だい?」
「今まで」と夕莉は言った。「夕奈に対して、何かしたいと思ったことがありましたか」
晴斗は夕莉を見た。
「何かしたい」という言葉の意味を、確認しようとした。
救いたい、
守りたい、
止めたい——色々あった。
でも今夕莉が聞いているのは、そのどれでも全部でもなかった。
「何かしたい」という言葉の核の部分を、聞いていた。
「ある」と晴斗は言った。
夕莉が頷いた。
「分かりました」と夕莉は言った。
それだけ確認したかったのだ。
晴斗は、「分かった」と言った夕莉にその言葉が何を意味するかを、聞かなかった。
ただ、夕莉がドアを開け、部屋を出て行くのを見送った。
廊下を歩いていく音がした。
足音が遠ざかって、夕莉の部屋のドアが静かに閉まった。
* * *
晴斗は机の前に残った。
「ある」と言った。言ったことが、今夜から夕莉の中にある。夕莉が何かに使うかどうかは分からなかった。でも渡した。
動くな。でも時間は有限だ。
その矛盾を、今夜から晴斗は持つことになった。答えは出なかった。答えが出ないまま持つことが、今できることだった。
窓の外で、虫の声が寂しく鳴っていた。




