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鏡淵の調律 ―揃わないまま、君と生きる―  作者: ちとせ鶫
第9章 音のない場所—消失寸前―

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第95話 Δs +3.5 臨界超過

 澪から連絡が来たのは、八月の終わりだった。


 「すぐ来てください」とだけ書いてあった。

 場所を指定していた。

 学校の空き教室ではなく、学校外の鏡淵町にある喫茶店だった。

 学校の外を指定してきたのは初めてだった。


 夕莉はメッセージを見てから、しばらく動かなかった。


 内容が何かは、まだ分からなかった。

 でも電話でも、また直接空き教室で会って伝えるわけでもないこということが、今日の話の種類をある程度示唆していた。


 「行きます」と返した。


     * * *


 喫茶店は静かな場所で、平日の昼間で客も少なかった。

 夕莉が店に入って、店内を見渡したとき、澪が奥の席にいてこちらに向けて手を振ってくれていた。

 窓から外の光が入っていて、澪の顔が明るく見えた。

 明るく見えることと、澪の表情が穏やかであることは、別のことだった。


 夕莉が向かいに座った。


「Δs:+3.5を確認しました」と澪は言った。


 完全な標準語だった。


「臨界点を超えました」


 0.5。


 夕莉は、数値を聞いて、その値をゆっくりと噛みしめて理解していた。

 臨界点は+3.5だと澪は言っていた。+3.1のとき、0.4あった。

 それが今日、なくなった。臨界を超えたのだ。


「境界の消滅が始まっています」と澪は続けた。


     * * *


「消失は、いつですか」と夕莉は聞いた。


 自分の声が普通に出たことに、少し驚いた。出た声は平らだった。平らに出た。


「消失の時期は分かりません」と澪は言った。「ただ、消失の条件は分かっています」


「条件?」


「境界が完全に消えるとき」と澪は言った。「存在がこちら側で維持できなくなります。今の状態は——まだ、両側にまたがっています」


 両側にまたがっている。


 その言葉が、具体的な映像として来た。

 夕奈の輪郭が薄くなっている。

 鏡の中の夕奈が先行する。

 壁を通り抜けかけた足。

 声が出なかった朝——晴斗から聞いた話だった。全部が、一つの線の上にあった。その線の先に、「両側にまたがっている」という状態は、そういうことだった。


「今回は、晴斗くんにも伝えます」と澪は言った。


 夕莉は澪を見た。


「以前の段階では、まだ早いと判断しました。でも臨界を超えた今は、伝える必要があります。ただし——」


「今は何もしてはいけない、でしょうか?」と夕莉は言った。


 澪が少し意外そうな表情を浮かべていた。


「そうです」と澪は言った。「よく分かりましたね」


「そう言われると思ってました……」と夕莉は言った。


     * * *


 喫茶店を出た後、夕莉は近くのベンチに座って、ノートを取り出した。

 先ほど澪から伝えられたことを、メモに残す。


「+3.5・臨界超過・伝える・動くな」


 書き終えて、「動くな」を見た。


 線を引こうとした。


 引いた。「動くな」の上に、横線が一本入った。


 でも消さなかった。


 以前、「晴斗、動くな」と書いて、鉛筆で消したことがあった。

 消した跡だけが残った。

 今日は鉛筆ではなく、ペンだった。線を引いたが、文字は残った。

 「動くな」という言葉に取り消し線が入っていたが、何を消したのかわかる状態だった。


 消したことと、線を引いたことは、違うことだった。


 消したいが、消せない。

 消せないなら、消そうとした跡だけでも残す。そういう、意味の線だった。


 ノートを閉じた。


 伝えるが、それに対して行動を起こすな。

 その二つが、今日から夕莉に課せられていた。


 矛盾しているとは思わなかった。

 矛盾しているが、両方とも、これから必要なことだった。

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