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鏡淵の調律 ―揃わないまま、君と生きる―  作者: ちとせ鶫
第9章 音のない場所—消失寸前―

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第94話 思念ノイズ

 八月の夜は、熱帯夜だった。


 窓を少し開けていた。扇風機が回っていた。外から虫の声がしていた。蝉ではなく、秋に向かう虫の声だった。


 その音が、止まった。


     * * *


 一瞬だった。


 虫の声が止んだ、という次元ではなかった。音、というものが、なくなった。扇風機の音も、外の音も、家の中の音も、全部が一瞬、存在しなかった。


 それから、戻った。


 虫の声が戻った。扇風機が回っていた。時計の針が動いていた。何秒間だったか分からなかった。一秒だったかもしれなかった。一秒より短かったかもしれなかった。


 第6章の夜に、街灯が全部消えた夜があった。あれより広かった。あれより深かった。音が止まるというのは、光が消えるより深い静けさだった。


 晴斗は布団の上で起き上がっていた。起き上がっていたのかどうかも、後から分かった。体が先に動いていた。


 廊下に出た。夕奈の部屋の前に立った。ドアをノックした。


 返事はなかった。もう一度ノックした。しばらくして、ドアが開いた。


「……お兄ちゃん?」と夕奈は言った。


 眠そうな顔だった。


「なんでもない」と晴斗は言った。「起こしてごめん。大丈夫か確認したかっただけ」


「大丈夫だよ」と夕奈は言った。「なんか怖い夢見た気がするけど、もう忘れた」


 ドアが閉まった。


     * * *


 翌朝、声が出なかった。


 夕奈の声が、出なかった。


 朝食の席だった。晴斗が「おはよう」と言った。夕奈が口を開いた。唇が動いた。「おはよう」の形に動いた。でも音が来なかった。


 夕奈が少し首を傾けた。もう一度口を開いた。今度は意識的に、声を出そうとした。唇が動いた。喉が動いた。音が来なかった。


「……」


 声帯の問題ではなかった。声を出す動作と、声が出ることが、繋がっていなかった。動作はある。結果がない。


「夕奈」と晴斗は言った。


 夕奈が晴斗を見た。怖がっているというより、戸惑っていた。自分の身体で起きていることが分からない、という顔だった。口をまた開いて、閉じた。


 三分ほどが過ぎた。


 「お兄ちゃん」と夕奈は言った。


 声が出た。普通の声だった。


「よかった」と晴斗は言った。声が少し変だったかもしれなかった。変だったとしても、今は仕方がなかった。


「声、変だった?」と夕奈は言った。「なんか、出なかった気がして」


「少しだけ」と晴斗は言った。「もう大丈夫そうだな」


「うん」と夕奈は言った。「怖い夢の続きかな」


 箸を持って、食べ始めた。


 三分間だった。三分間で回復した。安堵した。安堵してから、また起きる、という恐怖が来た。両方が同時にあった。


     * * *


 翌日、学校の廊下でエレーナが待っていた。


 昇降口を出たところにいた。朝だった。待っていた、という立ち方だった。晴斗が来るのを知っていた立ち方だった。


「昨夜ノ実験デ」とエレーナは言った。挨拶がなかった。「アナタノ思念ノイズガ増幅シマシタ。Δsガ+3.4ニ達シマシタ」


 晴斗は止まった。


「実験」と晴斗は言った。


「ソウデス」


「お前たちが実験したのか」


「ソウデス」とエレーナは言った。「朔也さんノ設備ヲ使イマシタ。昨夜、鏡の演算干渉実験ノ第三回ヲ実施シマシタ」


「夕奈の声が出なくなった」と晴斗は言った。


「観測サレマシタカ。非常ニ有益ナデータデス」


 有益なデータ。


 エレーナは感情なく言った。批判でもなく、開き直りでもなかった。事実の記述だった。昨夜の実験で有益なデータが得られた。それだけのことを、それだけの温度で言った。


 晴斗は何かを言おうとして、言わなかった。


 言葉にする前に、何かが変わった気がした。変わった何かに名前がつかなかった。でも変わった。


「Δs+3.4というのは」と晴斗は言った。声を、意識して平らにした。


「臨界ノ0.1手前デス」とエレーナは言った。「次ノ実験ガアレバ、超過スル可能性ガアリマス」


「次があるのか」


「組織ノ判断デス」とエレーナは言った。「私ハ伝達シマシタ」


 それだけ言って、エレーナは歩き始めた。


     * * *


 誰かに伝えなければならないと思った。


 でも誰に伝えるかが、決まらなかった。


 ほのか、夕莉、宗一——名前は出てきた。出てきた順番に意味があるかもしれなかった。でも今は、誰に伝えることが正しいかが分からなかった。伝えることで何かが動く。動いた何かが夕奈に影響する。エレーナが言った「思念ノイズ」という言葉が、まだ頭の中にあった。


 俺の存在が、ノイズだ。


 誰かに伝えることが、また別のノイズになるかもしれなかった。


 昇降口の前に立ったまま、晴斗はしばらく動かなかった。

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