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鏡淵の調律 ―揃わないまま、君と生きる―  作者: ちとせ鶫
第9章 音のない場所—消失寸前―

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第93話 ノートに書けないこと

 七月末、夕莉は部屋で机に向かっていた。


 夜だった。エアコンがついていた。外から虫の声がした。家の中は静かだった。晴斗の部屋に明かりがついているのが、ドアの隙間の光で分かった。


 ノートが開いてあった。


 白いままだった。


     * * *


 書けないのがいつからか、はっきりとは分からなかった。


 「壁透過・0.5秒ほど・本人認識なし」と書いた節から、書けることが減っていた。澪が「感覚で観測してください」と言った。その後から、数値という道具が手から離れていった。数値がなければ何を書けばいいか、夕莉には分からなかった。


 書けないのは、数値化できる単位を超えたからだけではなかった。


 書き始めると、止まれなくなる気がした。


 それが分かったのは、三日前だった。ペンを持って「07/××」と日付を書いたとき、続きを書こうとして、止まれなくなる気がした。だから止めた。日付だけが書いてあって、その後が白いページが、三日分あった。


 観測者として、失敗だと分かっていた。


 分かっていて、止められなかった。


     * * *


 なぜ書けないのかを、分析しようとした。


 感情が混入している、というのは分かっていた。どの感情かを、特定しようとした。


 夕奈が消えることへの恐怖、は、すでにあった。それは前からあって、ノートの感情欄を白くしながらも、書けなくなることはなかった。今回は違った。


 別の感情があった。


 「晴斗が何かをしようとしている」という感触があった。具体的な根拠はなかった。でも台所での件の後、晴斗の顔が少し変わった。何かを決めかけている顔だった。決めかけている、というより、決めようとすることを自分に許可しかけている、という顔だった。


 その顔が、怖かった。


 晴斗が動いたら、何かが取り返しのつかないことになる気がした。なぜそう思うかは、説明できなかった。でも来た予感だった。


     * * *


 ノートを手に取った。


 ページを開いた。白いままのページだった。


 鉛筆を持った。ペンではなく鉛筆を選んだ。なぜかは分からなかった。手が鉛筆を取った。


 書いた。


「晴斗、動くな」


 四文字と読点が一つ。書いてから、見た。


 観測記録ではなかった。現象でも数値でも分析でもなかった。感情だった。感情そのものだった。「時間が、ない」よりもっと直接的な、感情だった。


 消した。


 鉛筆で書いたから、消せた。ペンを取らなかった理由が、今分かった。


 消えた。でも、消えなかった。


 消した跡が残っていた。何かが書かれて、消された、という事実が、白いページの上に残っていた。書かなかったことと、書いて消したことは、違うことだった。


     * * *


 ノートを閉じた。


 机の上に置いた。また開くかもしれなかった。開かないかもしれなかった。今夜はどちらでも同じ気がした。


 晴斗の部屋の明かりが、まだついていた。


 動くな、と思った。


 声には出なかった。ノートにも書かなかった。ただ、思った。


 外の虫の声が、少し強くなったような気がした。

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