第92話 夕奈の手が通り抜けた
七月の台所は、夕方になっても熱が残っていた。
夕食の準備だった。晴斗が米を研いでいた。夕奈が食器棚の前に立っていた。夕食に使う皿を出そうとしていた。いつもの台所で、いつもの時間で、いつもの二人の動きだった。
夕奈が棚の扉に手をかけた。
手が、通り抜けた。
* * *
手首のあたりまで、扉の中に入った。
一瞬止まった。手を引いた。引き抜いた、という動作ではなく、気づいたから引いた、という動作でもなかった。止まって、戻した。それだけだった。
それからまた扉に手をかけた。今度は普通に開いた。皿を取った。
「あれ」と夕奈は言った。
それだけだった。「あれ」という一言で、振り返らなかった。皿を持って台所の中央に来て、テーブルに置いた。
晴斗は動けなかった。
米を研いでいた手が止まっていた。止まっていた時間を、後から数えた。七秒ほどだった。
* * *
「夕奈」と晴斗は言った。
「なに?」と夕奈は言った。次の皿を取ろうとしていた。
「さっき、棚に手が入ったよな」
夕奈が少し首を傾けた。
「どういうこと?」
「棚の、扉の中に。手が入った」
夕奈が扉の方を見た。それから自分の手を見た。手の甲を表に向けて、ひっくり返して、また表にした。
「入った、って——扉に?」
「ああ」
「開く前に?」
「ああ」
夕奈がもう一度扉を見た。もう一度自分の手を見た。それから「分からない」と言った。分からない、という言い方は、否定でも肯定でもなかった。「そんなことは起きていない」でも「確かに起きた」でもなかった。自分には分からない、ということを、ただ言った。
「分からないけど」とさらに夕奈は続けた。「お兄ちゃんが見てたなら、そうなんじゃないかな」
そう言って、次の皿を棚から取った。今度は普通に、扉を開けて、取った。
* * *
夕食の間、晴斗はほとんど話さなかった。
夕奈は話していた。今日学校であったこと、帰り道で見た野良猫のこと、来週のテストのこと。普通に話していた。棚のことには触れなかった。触れないのではなく、もう処理済みになっていた。あるいは最初から、処理の対象になっていなかった。
夕莉が食器を片付けていた。晴斗を一度だけ見た。何も言わなかった。
晴斗も何も言わなかった。
* * *
夜、ほのかにメッセージを送った。
「台所で夕奈の手が棚の扉を通り抜けた」
送ってから、返信を待った。
「今日で何回目?」と返ってきた。
「一回目」と答えた。
「昨日は?」
晴斗は少し考えた。昨日は、確認していなかった。確認しようとしていなかった。
「分からない」と送った。
少し間があった。
「分からないはダメ」とほのかは返した。
短かった。「分からないはダメだよ」でも「それじゃあかん」でもなかった。「分からないはダメ」という四文字だった。関西弁が出なかった。それだけで、今のほのかがどういう状態で送ったかが、少し分かった。
「……うん」と晴斗は打った。
「明日から記録して」とほのかは続けた。「何回、どの場面、何秒くらい。毎日送って」
「分かった」
「夕莉ちゃんにも確認する」
最後の一文を見た。夕莉、という名前が出た。ほのかが夕莉に直接確認を取る、ということを、ほのかが自分で言った。晴斗がつないだわけではなかった。ほのかが自分で動こうとしていた。
スマートフォンを置いた。
台所の方から、誰かが水を飲む音がした。夕奈だった。夕奈の飲む音だった。聞き分けられるようになっていた。
七秒間、手が止まっていた。あの感触が、まだ指先の近くにあった。




