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鏡淵の調律 ―揃わないまま、君と生きる―  作者: ちとせ鶫
第9章 音のない場所—消失寸前―

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第91話 エレーナ、登場

 六月初旬の放課後、晴斗は廊下を歩いていた。


 人が少なかった。部活に行く者、帰る者が分かれて、廊下の人口密度が下がる時間だった。窓の外は夕方の手前の光で、まだ明るかった。


 前方に、見知らぬ人物が立っていた。


     * * *


 少女だった。


 13歳という年齢は後で知った。その場では分からなかった。小柄だった。制服ではなかった。淡い色のジャケットと、機能的な素材のパンツ。それよりも目を引いたのは、首元に装着されたデバイスだった。細いベルト状のもので、小さいセンサーが等間隔に並んでいた。


 目が、年齢に合っていなかった。


 観察している目だった。観察、という言葉を晴斗は後から思ったが、その場での感触はもっと直接的なものだった。測られている、という感触だった。近づいてくる晴斗を、データとして取得している目だった。


「瀬戸晴斗くん、デスカ?」


 片言だった。でも発音は正確だった。言語の習熟度と、観察の精度が、別の軸にある、という感じがした。


「……そうだけど」と晴斗は言った。「誰だ」


     * * *


「アナタノ存在ガ」と彼女は言った。「鏡の演算ニ、ノイズヲ混入サセテイル」


 晴斗は何も言わなかった。


「非効率デス」と彼女は続けた。感情はなかった。あると言えばあったかもしれないが、少なくとも怒っていなかった。遺憾でも批判でもなかった。事実として言っていた。「アナタがいることで、計算が乱レマス。これは——」


「名前を聞いてる」と晴斗は言った。


 少女が少し止まった。止まってから、首を軽く傾けた。計算を一つ挟んだような間だった。


「エレーナ・ミラー。西ノ大国、北米合衆連合(UNA)から来マシタ」


 エレーナ、という名前が、頭の中で何かに当たった。引き出しに入れた紙。「エレーナ」とカタカナで書いた紙。あの夜の朔也の声——「エレーナさん、もう少し時間をいただければ」。


 実体として、今、目の前にいた。


     * * *


「ノイズというのは」と晴斗は言った。「どういう意味だ」


「アナタが夕奈サンノそばにいることで」とエレーナは言った。「鏡の向こうへの境界計算ガ、正確ニ収束シナイ。アナタという変数ガ——」


「失礼したね、晴斗くん」


 声がした。


 振り返ると、朔也が廊下の端に立っていた。いつから来ていたのか分からなかった。気配がなかった。穏やかな顔をしていた。驚きがなかった。エレーナが晴斗に話しかけていたことを知っていて、でも慌てていなかった。


「エレーナさんは少し直接的すぎる」と朔也は言った。穏やかに、言った。


「効率的デス」とエレーナは言った。


「君の効率と、相手の受け取り方は別の話だよ」と朔也は言った。まだ穏やかだった。「晴斗くん、今日は驚かせてしまったね。エレーナさんは少し——」


「さんをつけるんだな」と晴斗は言った。


 朔也が少し止まった。


「彼女は優秀な方だから」と朔也は言った。止まった時間を感じさせない速度で、返した。「ともかく、今日は先に失礼するね」


 エレーナが朔也の方を向いた。何かを言おうとした様子があって、でも言わなかった。計算を挟んで、黙った。


 二人が廊下を曲がって、見えなくなった。


     * * *


 晴斗はしばらく廊下に立っていた。


 「ノイズ」という言葉が、頭の中にあった。


 アナタノ存在ガ、鏡の演算ニ、ノイズヲ混入サセテイル——彼女は感情なく言った。批判ではなかった。観測結果として言った。


 それが余計に、残った。


 感情を乗せて言われるなら、まだ違ったかもしれなかった。事実として、計算として、変数として処理された。そのことが、今夜になっても、消えなかった。


 「俺のせいで」という言葉が、また来た。今度は夜を待たずに、廊下の、夕方の光の中で来た。

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