表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鏡淵の調律 ―揃わないまま、君と生きる―  作者: ちとせ鶫
第9章 音のない場所—消失寸前―

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
91/95

第90話 記録の限界

 五月中旬の放課後、夕莉は廊下を歩いていた。


 夕奈が少し前にいた。下校の時間だった。人が多かった。夕奈は人波の中を歩いていた。特に速くも遅くもなかった。いつもの夕奈の歩き方だった。


 曲がり角があった。

 夕奈が角を曲がろうとした。


 一歩分だけ、壁の中に入った。


     * * *


 夕莉は立ち止まった。


 止まって、見た。確認するために止まったのではなかった。見てしまって、止まった。


 夕奈の右足と右肩が、壁の中に入っていた。0.5秒ほどか——それから、戻った。何事もなかったように壁の外に出て、角を曲がって、廊下を歩き続けた。後ろを振り返らなかった。気づいていなかった。


 夕莉は動けなかった。


 動けなかった時間が、どれくらいかは分からなかった。五秒か、十秒か。廊下を歩いていた他の生徒たちは、誰も気づいていなかった。笑い声が聞こえた。鞄が当たった。夕莉は立ったまま、廊下の端で、他の誰も見ていなかったものを、一人で見ていた。


     * * *


 部屋に戻って、ノートを開いた。


 書いた。


「壁透過・0.5秒ほど・本人認識なし」


 書き終えて、ペンを置いた。


 ノートを見た。


 この数ヶ月分の記録が、そこにあった。Δsの数値。遅延の秒数。体温。輪郭の変化。全部、数値と現象で書いてきた。管理できると思っていた。数値で追えば、何かが分かると思っていた。


 壁を通り抜けた、という事実を前にして、数値が何かを教えてくれるとは思えなかった。


 0.5秒という数字を書いた自分が、少し、滑稽だった。


     * * *


 澪に電話した。


「壁透過が起きました」と夕莉は言った。「0.5秒ほど。本人は気づいていません」


 短い沈黙があった。


「それが始まったか」と澪は言った。


 標準語だった。今日も完全な標準語だった。


「存在が物理的な制約から外れ始めています」と澪は続けた。「Δsの数値で追うことには、限界があります」


「限界というのは」と夕莉は聞いた。


「壁透過は数値では表せない」と澪は言った。「これ以降、数値で追うのではなく——あとどれだけ、こちら側にいられるか、という感覚で観測してください」


 夕莉は、返事ができなかった。


「夕莉さん?」と澪は言った。


「......はい、聞いています」と夕莉は言った。「感覚で、というのは」


「あなたが今まで培ってきた観測の目で、数字に変換せずに、ただ感じてください」


 また、返事ができなかった。


     * * *


 電話を切った後、夕莉はしばらく部屋にいた。


 「感覚で観測してください」という言葉が、頭の中に残っていた。


 意味は分かった。言葉としては分かった。でも自分にそれができるかどうかが分からなかった。観測者として、ずっと数値に変換することで見てきた。感情欄を白いままにしてきた。「気がした」は書かなかった。感覚は観測ではない、という判断でここまで来た。


 その判断を、澪は今日、外した。


 感覚という計器が、自分に備わっているかどうか——夕莉には、分からなかった。


 ノートを開いた。


 「壁透過・0.5秒ほど・本人認識なし」という文字の下に、しばらくペンを当てていた。


 何かを書こうとして、書けなかった。書けなかったのではなく、何を書けばいいかが、今日初めて分からなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ