第90話 記録の限界
五月中旬の放課後、夕莉は廊下を歩いていた。
夕奈が少し前にいた。下校の時間だった。人が多かった。夕奈は人波の中を歩いていた。特に速くも遅くもなかった。いつもの夕奈の歩き方だった。
曲がり角があった。
夕奈が角を曲がろうとした。
一歩分だけ、壁の中に入った。
* * *
夕莉は立ち止まった。
止まって、見た。確認するために止まったのではなかった。見てしまって、止まった。
夕奈の右足と右肩が、壁の中に入っていた。0.5秒ほどか——それから、戻った。何事もなかったように壁の外に出て、角を曲がって、廊下を歩き続けた。後ろを振り返らなかった。気づいていなかった。
夕莉は動けなかった。
動けなかった時間が、どれくらいかは分からなかった。五秒か、十秒か。廊下を歩いていた他の生徒たちは、誰も気づいていなかった。笑い声が聞こえた。鞄が当たった。夕莉は立ったまま、廊下の端で、他の誰も見ていなかったものを、一人で見ていた。
* * *
部屋に戻って、ノートを開いた。
書いた。
「壁透過・0.5秒ほど・本人認識なし」
書き終えて、ペンを置いた。
ノートを見た。
この数ヶ月分の記録が、そこにあった。Δsの数値。遅延の秒数。体温。輪郭の変化。全部、数値と現象で書いてきた。管理できると思っていた。数値で追えば、何かが分かると思っていた。
壁を通り抜けた、という事実を前にして、数値が何かを教えてくれるとは思えなかった。
0.5秒という数字を書いた自分が、少し、滑稽だった。
* * *
澪に電話した。
「壁透過が起きました」と夕莉は言った。「0.5秒ほど。本人は気づいていません」
短い沈黙があった。
「それが始まったか」と澪は言った。
標準語だった。今日も完全な標準語だった。
「存在が物理的な制約から外れ始めています」と澪は続けた。「Δsの数値で追うことには、限界があります」
「限界というのは」と夕莉は聞いた。
「壁透過は数値では表せない」と澪は言った。「これ以降、数値で追うのではなく——あとどれだけ、こちら側にいられるか、という感覚で観測してください」
夕莉は、返事ができなかった。
「夕莉さん?」と澪は言った。
「......はい、聞いています」と夕莉は言った。「感覚で、というのは」
「あなたが今まで培ってきた観測の目で、数字に変換せずに、ただ感じてください」
また、返事ができなかった。
* * *
電話を切った後、夕莉はしばらく部屋にいた。
「感覚で観測してください」という言葉が、頭の中に残っていた。
意味は分かった。言葉としては分かった。でも自分にそれができるかどうかが分からなかった。観測者として、ずっと数値に変換することで見てきた。感情欄を白いままにしてきた。「気がした」は書かなかった。感覚は観測ではない、という判断でここまで来た。
その判断を、澪は今日、外した。
感覚という計器が、自分に備わっているかどうか——夕莉には、分からなかった。
ノートを開いた。
「壁透過・0.5秒ほど・本人認識なし」という文字の下に、しばらくペンを当てていた。
何かを書こうとして、書けなかった。書けなかったのではなく、何を書けばいいかが、今日初めて分からなかった。




