第89話 名前を呼ぶとき
五月の廊下は、窓の外の新緑が明るくて、でも晴斗はその明るさをほとんど見ていなかった。
夕奈が呼んだ。
「......お兄ちゃん」
少し前から気づいていた。気づいていて、数えていなかった。数えようとしていなかった。でも今日は朝から、数えていた。
今日で、これが何回目か。
* * *
最初に気づいたのは、三週間ほど前だった。
夕奈が晴斗の名前を呼ぶとき——「お兄ちゃん」でも「晴斗」でも——呼ぶ前に一瞬、間が入るようになっていた。言葉を探しているのとは違った。言葉はそこにある。取り出す前に、何かを確認している。対象が誰かを、確認している。そういう一拍だった。
呼ばれた後の「お兄ちゃん」は普通だった。声のトーンも、内容も、普通だった。ただ、呼ぶ前の一拍が、あった。
それだけといえばそれだけのことだった。でもそれだけではなかった。
* * *
昼の廊下で、晴斗が先に「夕奈」と呼んだ。
振り向いた。
振り向いてから——「晴斗だ」という認識が彼女の表情に乗るまでに、二拍ほどかかった。目はこちらを見ていた。でも「見ている」という感じではなかった。音がした方向にある何かを確かめている目だった。
それから「お兄ちゃん」と言うまでに、さらに二拍ほどあった。
「なに? どうしたの」と夕奈は言った。声はいつも通りだった。
「なんでもない、呼んでみただけ」と晴斗は言った。
「ふうん」と夕奈は言って、また歩き始めた。
廊下を歩いていく夕奈の後ろ姿を見ていたら、横からほのかが来た。
* * *
「見てた」とほのかは言った。確認でも問いかけでもない言い方だった。
「うん」
「さっきの、二拍くらいあったよね」とほのかは言った。「お兄ちゃんって言うまでにも」
「うん」
ほのかが少し間を置いた。
「それが今日で何回目?」
晴斗は少し考えた。朝から数えていた。朝、食卓で一回。授業の合間に廊下で一回。さっきので三回目だった。
「三回」と晴斗は言った。
ほのかは何も言わなかった。
何も言わないことの意味を、晴斗は考えた。「三回も」と言いたかったのか、「三回か」と受け止めたのか、それとも「三回」という数字がほのかの中でも何かに触れて、言葉が来なかったのか。
「今日だけで三回」と晴斗は言った。続きを言おうとして、続きが来なかった。
「......うん」とほのかは言った。「分かった」
分かった、という言葉が何を指しているのかは、聞かなかった。聞く必要がなかった。今日だけで三回、ということを、ほのかが受け取った。それだけで今日は十分だった。
廊下の向こうで、夕奈の後ろ姿が角を曲がって見えなくなった。
* * *
帰り道、夕奈と並んで歩いた。
夕奈が話していた。今日の授業のこと、隣の席の子のこと、給食の話——普通の話だった。普通に話していた。間は、入らなかった。
晴斗は返事をしながら、「普通に話している」という事実を観察していた。
観察していることが、もう普通ではなかった。でも今日はそのことを、それ以上考えるのをやめた。考え続けても、今日の答えは出なかった。
夕奈が「今日の晴斗なんかぼーっとしてる」と言った。
「そうか?」
「うん、なんか遠い感じ」と夕奈は言った。「大丈夫?」
「大丈夫」と晴斗は言った。「ちょっと考えごとしてた」
「なんの?」
「たいしたことじゃない」
夕奈は少し首を傾けて、それから「そっか」と言って、また歩き始めた。
たいしたことじゃない、と言った。
そうではなかった。でも、そうではないということを、今日は夕奈には言えなかった。




