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鏡淵の調律 ―揃わないまま、君と生きる―  作者: ちとせ鶫
第9章 音のない場所—消失寸前―

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第88話 Δs:+3.2

 四月中旬の夕方、夕莉は部屋でノートを開いていた。


 窓の外はまだ少し明るかった。桜はもう散っていた。新学期が始まって二週間ほどか。教室の顔ぶれが少し変わった以外、鏡淵は何も変わっていなかった。


 ノートに数値を書いた。


「Δs:+3.2」


 ペンを置いた。


 0.3。


 臨界点まで、0.3だった。


     * * *


 ノートを最初のページから遡ってみた。


 中学の頃から書き始めた記録が、何十ページにもなっていた。日付と数値と現象の記述。どのページも、形式は同じだった。記録欄に事実を書く。感情欄は、白いままだった。


 全部、白いままだった。


 気づいていなかったわけではなかった。感情欄に書けることが来るたびに、書くかどうかを判断して、書かなかった。その積み重ねが、何十ページ分の白い欄として並んでいた。書かない、ということを選び続けた結果が、そこにあった。


 でも今日は少し、違った。


 白い欄を見ていたら、書かなかったことの重さが、逆側から押してきた。


     * * *


 澪に連絡を入れた。電話で。対面で話を申し込もうとして、やはり今日は電話でいいと思った。声だけで十分なことがある。


「Δsが+3.2になりました」と夕莉は言った。


「そうですか」と澪は言った。間があった。「高校に入られましたね」


「はい」


「環境が変わると、ストレス要因が増えます」と澪は言った。「それがΔsの加速につながる可能性があります」


「どれくらい加速するんでしょうか」


「正確には言えません」と澪は言った。標準語で、はっきりと言った。「状況を見ながら、都度お伝えします」


 状況を見ながら。


 それが今できる最善の言い方なのだということは、分かった。分かったが、今夜はその言い方が、少し重かった。


「分かりました」と夕莉は言った。


 電話を切った。


     * * *


 ノートを閉じた。

 そして、閉じたまま、持っていた。


 十秒ほどか。膝の上でノートを持っていた。部屋が静かだった。廊下で誰かが動く気配はなかった。窓の外の光が、少し薄くなっていた。


 また開いた。


 「Δs:+3.2」の下の行に、ペンを当てた。


 何を書くか、決めていなかった。決めずにペンを当てた。浮かんだ言葉を書くつもりだった。


 言葉が浮かぶ。


「時間が、ない」


 そのまま書いた。

 ペンを置いた。書いたものを見た。


 感情の言葉だった。「Δs:+3.2」は数値だった。「時間が、ない」は違った。観測の記録ではなかった。でも事実ではあった。時間がない、というのは感情ではなく、事実だった。事実として、書いた。そう夕莉は思おうとした。


 思おうとしながら、ペンを持つ手が、机の上に戻らなかった。


 しばらく、そのままでいた。

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