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鏡淵の調律 ―揃わないまま、君と生きる―  作者: ちとせ鶫
第9章 音のない場所—消失寸前―

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第87話 高校入学式の朝

 四月の朝は、どこか余所行きの空気がした。


 桜がまだ残っていた。昨日の夜に少し風が吹いたから、路面に花びらが散っていた。踏んで歩いた。夕奈も踏んで歩いた。踏んだことに特に何も言わなかった。


 洗面所で夕奈が先に鏡の前に立っていた。新しい制服のリボンを、まだ慣れていない手で結ぼうとしていた。うまくいかなくて、一度ほどいて、また結んでいた。


「手伝おうか」と晴斗は言った。


「いい、自分でできる」と夕奈は言った。少し間があって、「......できた!」と言った。形は不揃いだったが、確かにできていた。


 鏡を見た。鏡の中の夕奈が、現実の夕奈と同じ位置にいた。今朝は、一致していた。


     * * *


 並んで歩いた。登校の道は、中学のときと変わっていなかった。石畳の継ぎ目も、電柱の間隔も、角を曲がる場所も、全部同じだった。変わったのは制服だけだった。それが今日と昨日の違いの全部だった。


 昇降口の前に来た。春の光が校舎の壁に当たっていた。新入生がいくつかのかたまりになって立っていて、緊張した声と笑い声が混じって聞こえてきた。


「今日から高校生だね」と夕奈は言った。昇降口の方を見ながら言った。


 普通の声だった。普通すぎるくらいの、声だった。


 晴斗は夕奈の横顔を見た。「今日から」という言葉が夕奈の中で正しく機能しているかどうか——高校入学という区切りを、今日という時間軸の上に夕奈がちゃんと置けているかどうか——確認しようとして、確認する方法がなかった。


「そうだな」と晴斗は言った。


 夕奈が靴を履き替えた。晴斗も履き替えた。


     * * *


 入学式の教室は、知らない顔が多かった。中学からそのまま上がってきた生徒と、外から来た生徒が混じっていた。新しい教科書の匂いがした。窓から桜が見えた。


 席に座ってしばらくして、ほのかが通りかかった。二列隣の席に荷物を置いて、一瞬、晴斗の方を見た。


 目が合った。


 何も言わなかった。ほのかも何も言わなかった。それだけだった。ほのかが前を向いた。


 何も言わなくていい日だと、互いに分かっていた。夕奈が普通に見えているから、今日は何も言わなくていい。その判断が目と目の一瞬に入っていた。こういう暗黙が成立するようになったのがいつからかを、今日は考えなかった。


     * * *


 式が始まった。来賓の挨拶があった。校長の話があった。新入生代表の言葉があった。内容は頭に入らなかった。でも聞いている形は取れた。


 晴斗は前を向いたまま、夕奈のことを考えていた。今この瞬間、別の教室にいる。別の席に座って、同じ式に出ている。「今日から高校生だね」と言った夕奈が今そこにいる。


 普通に見えていた。


 普通に見えていた、という観察を今日もしている自分に気づいた。普通かどうかを確認することが日常になったとき、もうそれは普通ではない。そのことを、式の間ずっと、晴斗は分かっていた。


 隣の席の知らない生徒が、緊張した顔で前を向いていた。


     * * *


 昼休みに廊下でほのかとすれ違った。


 人が多かった。ほのかが少し歩調を緩めた。晴斗も緩めた。並んで歩きながら、ほのかが言った。


「夕奈ちゃん、見たん?」

「うん」

「普通やったな。今日は」

「うん」と晴斗は言った。それから少し考えて、「今日は、な」と言った。


 ほのかがひと呼吸置いて答えた。


「......そやね」とほのかは言った。「今日は」


 それだけだった。普通だったことを確認し合った。喜んでいるわけでも、安堵しているわけでもなかった。ただ確認した。「今日は」という二文字が二人の間に残った。


 廊下の人込みが間に入ってきて、自然に二人は離れた。


 高校の最初の昼が、そうして終わった。

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