第86話 壊れていくから、消えていく
十一月の終わり頃、夕奈が先に眠った。
晴斗の部屋だった。
いつからそうなったかを、今夜は考えなかった。
考えようとして、どこから辿ればいいかが分からなかった。
気がついたらそういう夜の形になっていた。
夕奈が晴斗の部屋にいて、袖を掴んで、先に眠る。
それが今の夜だった。
廊下の明かりが、ドアの隙間から薄く差し込んでいた。
消すのを忘れたのか、誰かがまだ起きているのか。
それだけの明かりの中で、晴斗は天井を見ていた。
* * *
寝返りを打つのが億劫で、そのまま横を向いた。
夕奈の顔があった。
眠っていた。
袖を、掴んでいた。
指の力は緩んでいた——眠れば力が抜けるのは当たり前のことで、それでも手は離れていなかった。眠っても、掴んでいた。
夕奈の輪郭を、見た。
薄かった。
逆光でも何でもなかった。ただの暗がりだった。
六月に澪が「逆光の中で輪郭が先に光に溶ける」と言っていた。
夕莉のノートにもそう書いてあった。
でも今夜は逆光ではなかった。暗がりの中で、何もない場所で、夕奈の輪郭が薄く霞んで見えた。
進んでいる、と思った。
* * *
中学に上がってから、ずっと「壊れていく」という言葉で考えてきた。
壊れる、というのは、形が変わることだった。壊れても、そこにある。形が変わっても、存在はそこにある。だから壊れていくという言葉を使ってきた。壊れていく、という言い方には、まだそこにある、という前提があった。
今夜、違う言葉が来た。
消えていく。
消える、というのは形がなくなることだった。壊れた後に残るものが、消えることで残らなくなる。壊れることと消えることは、同じではなかった。
壊れていくと思っていた夕奈のことを、今夜、晴斗は消えていくと思った。
一度来たら、「壊れていく」には戻れなかった。
* * *
「俺のせいで」という言葉が、後から来た。
夏の終わり頃、深夜に一度来たことがあった。あのときは打ち消す言葉が来なくて、朝になったら少し薄れた。今夜は打ち消そうとしなかった。来るのを待った。
そして言葉が下りて、来た。
「俺のせいで消えていく」
一本になった。加害者意識と、今夜の「消えていく」が、一本の線になった。その線が正しいかどうかは分からなかった。正しくないかもしれなかった。でも正しくないと言える言葉が今夜も来なかったから、否定できなかった。
問いが、形を持った。
形のある問いは、形のない問いより重かった。その重さが、今夜から晴斗の中に居座ることになった。
* * *
夕奈の手を見た。
晴斗の袖を掴んでいた。指が四本、見えていた。親指は袖の下に隠れていた。指の形があった。爪があった。関節があった。手の甲に細い筋があった。全部、ちゃんとあった。
でも輪郭は薄くなっていた。
あるのに薄い。そこにいるのに、薄くなっている。
晴斗はその手から目を離さなかった。
眠れなかった。眠ろうとも思わなかった。ただ、目を開けたまま夕奈の手を見ていた。見ていることが今夜できることの全部だった。それ以上でも以下でもなかった。
廊下の明かりが、夜の間中ついていた。




