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鏡淵の調律 ―揃わないまま、君と生きる―  作者: ちとせ鶫
第8章 崩壊の臨界(後半)

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第85話 Δs・限界値

 十一月の初めに、澪から連絡が来た。


 メッセージの文面は短かった。「直接お会いしたいのですが、夕莉さんのご都合はいかがでしょうか」。電話でも空き教室でもなく、夕莉の部屋を指定してきた。それが、どういう種類の話かを示していた。


 夕莉はメッセージを読んで、一度ノートを取り出した。何かを書き留めようとして、ペンを持ったまま止まった。まだ何も分かっていなかった。分かってから書く。ノートを閉じて、「分かりました、土曜の午後はいかがでしょう」と返した。


     * * *


 土曜の午後、澪が来た。


 インターホンが鳴って、夕莉が出た。澪はいつもと変わらない顔で立っていた。乱れたところがなかった。それが少し、怖かった。


 部屋に通した。澪が椅子に座った。夕莉は向かいに座った。


 いつもは澪の斜め後ろを選んだ。向き合うと相手の表情が情報として入りすぎる、というのが夕莉の習慣だった。でも今日は正面を選んだ。澪が正面を選んだから、従った。


「Δsが+3を超えました」と夕莉は言った。報告から入った。感情を後ろに置いて、数値を先に出した。それが夕莉のやり方だった。


「そうですね」と澪は言った。


 標準語だった。完全に標準語だった。澪が京言葉を手放すとき、感情を内容から切り離そうとしているのだと夕莉は知っていた。それが今日の話の重さを示していた。


「境界の消滅が始まります」と澪は続けた。「実験的な観測では、+3.5が臨界点と見ています」


「今は」と夕莉は聞いた。


「+3.1です」


 0.4。


 その数値が夕莉の中に入った。入って、どこかに止まった。


「三週間から一ヶ月で、臨界に達する可能性があります」


 部屋が静かだった。廊下で足音がした。夕奈だった。夕奈の歩き方は分かった。足音が遠ざかって、どこかのドアが閉まった。


     * * *


「晴斗くんに伝えるべきですか」と夕莉は聞いた。


 少し間があった。


「今は、まだ早いと思います」と澪は言った。


「なぜですか」


「晴斗くんが何かをしようとした場合」と澪は言った。言い方は静かだったが、一語一語に重さがあった。「その行動が夕奈さんの境界を乱すことがあります。そうなれば——加速します」


 夕莉は澪を見ていた。


「加速というのは」と夕莉は言った。確認のために聞いた。


「臨界に達するまでの時間が、短くなるということです」


 0.4が、0.2になる。三週間が、一週間になる。それだけのことではなかった。臨界の先に何があるかを、夕莉は澪から聞いていた。聞いていたから、「加速」という言葉が何を連れてくるかを、知っていた。


「分かりました」と夕莉は言った。


「夕莉さん」と澪は言った。


「はい」


「記録は続けてください。それが今できる一番のことです」


 夕莉は頷いた。澪が立ち上がった。


     * * *


 澪が帰った後、夕莉は部屋に一人残った。


 机の上にノートがあった。


 開かなかった。


 手は届く場所にあった。ペンも横に置いてあった。でも開かなかった。この会話を記録したくなかった。記録したくないという気持ちが、はっきりとそこにあった。


 でも記録しなければ、今日のこの会話は——存在しなかったことに、なるわけではなかった。そうじゃない。記録の外にあっても、起きたことは起きた。消えない。


 ただ、記録したくなかった。


 どちらの気持ちも本物だった。記録したくない。でも記録しなければ自分の中で整理できない。そのどちらも、同じくらい本物だった。


 ノートを取り上げた。閉じたまま、持っていた。


 どのくらいそうしていたか、分からなかった。一分か、もう少し長かったか。


 開いた。


 そして、書いた。


「11月××日:臨界予測・3〜4週」


 ペンを置いた。


 感情欄の行があった。白いままだった。書けることはあった。「怖い」という言葉も、「間に合わない」という言葉も、来てはいた。書かなかった。書く必要がある言葉かどうか、今夜は判断できなかった。


 ノートを閉じた。


 窓の外で風が鳴っていた。十一月の風だった。

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