第84話 鏡の向こうの夕奈
十月の朝は、光が薄かった。夏の間あれだけ眩しかった朝の洗面所が、今は曇りガラスの外から来る白みがかった光だけで満たされていて、どこか水の底みたいな静けさがあった。
晴斗が洗面所のドアを開けたとき、夕奈がもういた。洗面台の前に立って、顔を洗い終えたところだった。タオルを両手で顔に当てて、目を押さえていた。
晴斗は洗面台に並んだ。蛇口を捻った。水が出た。
鏡を見た。
* * *
二人が映っていた。
最初は、普通だった。
次の瞬間、気づいた。
鏡の中の夕奈が、現実の夕奈より前にいた。隣に立っているはずの彼女より、二歩分ほど前の位置に映っていた。鏡は現実を反射するものだ。距離が合うはずだった。
合っていなかった。
鏡の中の夕奈は、洗面台から二歩前の、扉に近い空間に立っていた。現実の夕奈は、晴斗の隣にいた。同じ人間が、二つの場所に存在していた。
晴斗は水を出したまま、手が止まった。
「夕奈」
声が出た。自分でも気づかないうちに、出ていた。
鏡の中の夕奈が、先に振り向いた。
それから一拍おいて、隣の夕奈が振り向いた。
「なに?」と夕奈は言った。「どうしたの、急に名前呼んで」
普通の声だった。ぽかんとした、でも穏やかな顔をしていた。自分が先に振り向いたことに、彼女は気づいていなかった。鏡の中の自分と現実の自分がずれていることを、夕奈は知らなかった。
晴斗は何かを言おうとした。「何でもない」と言えばよかった。それだけでよかった。
でも「何でもない」が来なかった。
「おはよう」と晴斗は言った。
「......おはよう?」と夕奈は言った。一瞬きょとんとして、「もうご飯食べてたよね、お兄ちゃん」と首を傾けた。
「そうだな」
「なんかおかしいよ、今日」と夕奈は言ったが、笑うでもなく怒るでもなく、そのまま洗面所を出ていった。
晴斗は鏡を見た。
自分一人が映っていた。一致していた。
* * *
夕方、ほのかにメッセージを送った。
「見えた」
それだけ送った。何が見えたかは書かなかった。書かなくても伝わる気がした。伝わらなかったとしても、今はそれ以上の言葉が出てこなかった。
しばらくして返信が来た。
「いつから?」
「今日」と晴斗は打った。
返信は、来なかった。
五分待った。十分待った。来なかった。
来ないことが返信だ、と思った。「今日」という言葉を受け取って、ほのかが何かを処理しているということだった。処理した内容を、今夜は送ってこなかった。送れなかったのか、送らなかったのか、どちらかは分からなかった。
どちらでもよかった。今夜は、それでよかった。
* * *
夜、廊下で夕莉と行き合った。
夕莉が晴斗を見た。何も言わなかった。
晴斗も何も言わなかった。
夕莉の目に今朝の鏡のことが入っているかどうかを、晴斗は一瞬考えた。夕莉ならとっくに知っているかもしれなかった。知っていて、言わなかっただけかもしれなかった。でも確認しなかった。確認することで今夜の自分が変わるとは思えなかった。
夕莉が部屋に入った。ドアが静かに閉まった。
晴斗は廊下に一人残った。
今朝の映像が、まだ目の奥にあった。鏡の中の夕奈が二歩前に立っていた。こちらを先に振り向いた。隣の夕奈は一拍遅れて振り向いて、「なに?」と言った。「おはよう」と言ったら「もうご飯食べてたよね」と首を傾けた。
何も知らなかった。
夕奈は何も知らないまま、今夜も眠る。
それを、今夜晴斗ははっきりと知った。知ることと、どうにかできることは、別のことだった。




