第83話 言葉の解体
九月に入っても、廊下の空気はまだ夏の重さを引きずっていた。扇風機が教室の隅で回っていて、でもあまり涼しくなかった。廊下側の窓は半分だけ開いていて、外から蝉の声がまだ聞こえた。
夕莉は廊下を歩きながら、向かいの教室の窓から中が見えることに気づいた。
一時間目の国語だった。夕奈のクラスだった。
立ち止まることは不自然だったが、夕莉はそのまま少しだけ歩を緩めた。
* * *
教師が「瀬戸夕奈」と呼んだ。
夕奈が顔を上げた。
間があった。音が届いてから、顔が上がるまで。二拍ほどか——夕莉はその遅れを窓越しに確認した。
顔が上がったとき、夕奈の目は教師の方を向いていた。向いてはいたが、何かを探しているような目だった。名前を呼ばれたという意味を処理しているのではなく、声が来た方向を先に確かめているような、そういう目だった。
教師が「教科書の何ページ、読んでもらえますか」と続けた。
夕奈が教科書を開いた。指でページを繰り始めた。少し間があった。「何ページ」という数字が届いてから、ページを探し始めるまでに、一拍ほど。
声は普通だった。文字は読めていた。読み始めてしまえば、何もおかしくなかった。
ただ、最初の一拍が、毎回あった。
* * *
三度、確認した。
名前を呼ばれたとき、二拍ほど。ページ指示のとき、一拍ほど。「どう思いますか」という質問に対して、夕奈が教師の方を向いてから、内容を処理しはじめるまでに、二拍ほど。
三度とも、反応は来た。遅れはあったが、来た。
間の間ずっと、夕奈の目は声が来た方向を見ていた。意味ではなく、音の向きを、先に処理していた。
夕莉は廊下を歩き続けた。立ち止まらなかった。
* * *
午後、夕莉は夕奈と同じ廊下を歩いていた。少し後ろになった。
「夕奈」と呼んだ。
振り向くまでに、一拍あった。振り向いてから、夕奈の目が夕莉の顔を見た。でも「夕莉だ」という認識が来るまでに、もう少し間があった。その間、彼女の目はまだ、音がした方向にある何かを、探すような動きをしていた。夕莉の顔を見ているのに、夕莉を見ていなかった。
「夕莉」と夕奈は言った。それから少し首を傾けて、「どうしたの? 急に」と続けた。
「ううん、なんでもない。名前呼んでみただけ」
「え?」と夕奈は言った。「なんで?」
「確認したかっただけ」
夕奈は少し不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。「そっか」と言って、また前を向いて歩き始めた。
夕莉はその後ろ姿を、歩きながら見ていた。
確認した、という言葉が自分の口から出た。咄嗟に出た言葉だったが、正しかった。確認だった。
* * *
放課後、人のいない教室の隅に座ってノートを開いた。
確認した内容を記した。
「09/×× 言語処理遅延・平均1.5拍ほど・音方向優先」
ペンを置いた。書いたものを見た。
「1.5拍」という数値を目で追った。第6章の記録にあった「返事に一拍〜二拍の空白」という系列と同じだった。続いていた。数値が変化しながら、同じ方向に、ずっと続いていた。止まっていなかった。
感情欄の行が、白いままだった。
書けることは、あった。来ている言葉は、あった。ただ書きたくなかった。書きたくないという気持ちと、書かないという判断は、今日は同じだった。
ノートを閉じた。
廊下の向こうから、誰かが笑いながら話す声が聞こえた。知らない声だった。




