第82話 髪の感触
八月の昼は、光が白かった。
それは単なる明度ではなく、すべてを焼き尽くし、色さえも剥ぎ取ってしまうような白群の光だった。アスファルトからは陽炎が揺らめき、見慣れた校舎も、遠くの山並みも、その鋭い光の中で輪郭を震わせている。
蝉時雨が容赦なく降り注ぐ中、空は突き抜けるように高く、そこにあるだけで肌を刺すような夏の熱を孕んでいた。
居間に扇風機があった。夕奈がその前に座っていた。扇風機の風に、夕奈の髪が揺れていた。
「お兄ちゃん」と夕奈は言った。「ここに、来て座って」
扇風機の横に座った。風が横から浴びる形になった。
* * *
しばらく、二人で扇風機の前にいた。
夕奈が目を閉じた。風を受けていた。晴斗は夕奈の横顔を見ていた。見ていいかどうかを考えなかった。見てしまっていた。
風が一度強く来た。夕奈の髪が流れた。
晴斗は手を伸ばした。
特に理由はなかった。流れた髪を、直そうとした。それだけだった。
彼女の髪に、触れた。
* * *
一瞬だった。
でも七秒間ほどか、手が止まっていた。
七秒間、ということを後で思い返す。その場では数えていなかった。止まっていた間の長さを、後で逆算した。七秒だった。
触れていた。形はあった。指に夕奈の髪があった。
でも、重さがほとんど感じられなかった。
人間の髪の重さではなかった。人間の髪ではないものの重さでもなかった。人間の髪、と綿の中間のような——それも正確ではなかった。形がある。でも密度がない。触れているのに、触れている手応えが、どこか遠かった。
以前、一度感じていた感触だった。「気のせい」にしていた感触だった。
今日は気のせいにできなかった。
- * * *
「どうしたの?」
夕奈が目を開けて、晴斗を見た。
声は普通だった。表情は普通だった。晴斗の手が止まっていることを、不思議そうに見ていた。不思議そう、という程度だった。怖がっていなかった。気づいていなかった。
「なんでもない」と晴斗は言った。
髪を直した。手を引いた。
「そっか」と夕奈は言った。また目を閉じた。風を受け始めた。
晴斗はそこにいた。扇風機の横に、そのままいた。
夕奈の髪が、また風に揺れた。今度は手を伸ばさなかった。
* * *
夜、ほのかにメッセージを送った。
「夕奈の髪、触ってみて」
それだけ送った。なぜそう送ったかを、説明する言葉がなかった。説明しなかった。
しばらく経って、返信が来た。
「思ったより、軽かったでしょ?」
どうやら知っていたようだ。
晴斗はその返信を見た。見てから、スマートフォンを伏せた。
知っていた。ほのかも触ったことがある。ほのかにも同じ感触が来ていた。自分だけではなかった。気のせいではなかった。
「気のせいではない」という確認が、今夜晴斗の心に刻まれた。
確認ができたことで楽になるかどうかを思ったら、楽にはならなかった。でも一人ではなかった。一人ではないことと、楽になることは、違うことだった。
違うことだったが、一人ではないことは、確かだった。
晴斗は目を閉じた。
七秒間、手が止まっていた。その感触が、まだ指の先にあった。




