第80話 Δsの加速
六月中旬の放課後は、光の角度が低かった。
夕莉は下校のとき、夕奈の斜め後ろを歩いていた。少し距離を置いていた。距離を置くのは、観測のためだった。隣にいると細部が取れない。斜め後ろ、三歩分、それが夕莉の観測位置だった。
校門を出た。
逆光だった。
西日が正面から来ていた。夕奈が光の中に入った。夕莉も光の中に入った。
違った。
夕奈の輪郭が、薄かった。
* * *
輪郭が薄い、というのは比喩ではなかった。
逆光のとき、人の輪郭は光に溶ける。それは誰でも同じだった。夕莉自身も、他のクラスメイトも、校門を出た誰もが逆光の中で輪郭を光に滲ませていた。
でも夕奈だけが、違った。
他の人間より早く溶けていた。光が来る前に、輪郭がなかった。先行していた。Δsが、輪郭にまで来ていた。
夕莉は三歩後ろで、立ち止まった。
夕奈は気づかずに歩き続けた。
三秒間観察した。確認した。見間違いかどうかを確認するために、周囲の他の人間と見比べた。見比べた結果、見間違いではなかった。
夕莉は歩き始めた。夕奈に追いついた。「夕奈」と呼んだ。夕奈が振り返った。顔が見えた。輪郭があった。正面では分からなかった。逆光のときだけだった。
* * *
その日の放課後、澪に報告した。
「Δsが、視覚領域に出ました」と夕莉は言った。「逆光下で輪郭の先行が確認できます。Δs:+2と記録します」
澪が少し間を置いた。
「想定より三ヶ月早い」と澪は言った。
標準語だった。いつも標準語だったが、このときは特に標準語だった、と夕莉は感じた。感情を持たない言語として選ばれている、という感じだった。
「これから何が起きるんですか」と夕莉は聞いた。
「境界が消える」と澪は言った。「夕奈さんが現実と異界の境界を保てなくなります。存在が両側にまたがり始める」
「それが、消失ですか」
「消失の手前です」と澪は言った。「消失はその後に来ます」
夕莉は聞いた。全部聞いた。途中で止めなかった。止めたかったかどうかを、後で考えた。考えたが、答えは出なかった。
* * *
帰り道、ノートを出した。
電柱の前ではなかった。歩きながら書いた。字が少し崩れた。
「境界消滅・想定より三ヶ月早い」
書きながら、手が止まった。
一秒か、二秒か。そこで書く手が止まった。
でも、続けて書いた。
書く手が止まったことと書いたことの両方が、今日の記録だった。どちらか一方ではなかった。手が止まった、という事実も、書いた、という事実も、同じ重さで今日の記録だった。
ノートを閉じた。
* * *
夜、夕奈と夕食を共にした。
夕奈は食べたが、その量は少なかった。でも食べてはいた。箸が止まらなかった。今日は止まらなかった。
夕莉は夕奈の輪郭を見た。
室内光だった。逆光ではなかった。輪郭はそこにあった。夕奈の輪郭は、今この瞬間は、ちゃんとそこにあった。
「夕莉、ご飯おいしい?」と夕奈は言った。
「うん」と夕莉は言った。
「そっか」と夕奈は言った。「よかった」
よかった、という言葉が、どこから来たのか分からなかった。夕莉がおいしいと言ったことが、夕奈に何かを届けたのか。届いたとしたら何が届いたのか。
夕莉には分からなかった。
分からないまま、食事を続けた。
夕奈の輪郭は、そこにあった。
今夜は、そこにあった。




