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鏡淵の調律 ―揃わないまま、君と生きる―  作者: ちとせ鶫
第8章 崩壊の臨界(後半)

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第79話 エレーナの名前

 六月の夜は、遅くまで明るい余韻が残る。


 晴斗が廊下に出たのは、水を飲みに行くためだった。夜の十時過ぎだった。


 朔也の声がした。


     * * *


 廊下の奥から聞こえて来た。書斎の方向ではなかった。廊下の突き当たりの窓の前だった。電話をしていた。声が廊下に出ていたのは、部屋ではなく廊下を選んだからだった。なぜ廊下を選んだかは分からなかった。


 晴斗は台所に向かいながら、声を聞いた。


 意識して聞いたのではなかった。廊下を歩いていたから聞こえた。


「エレーナさん、もう少し時間をいただければ——」


 それだけだった。


 朔也が晴斗に気づいた。電話を持ったまま、こちらを見た。一秒か二秒、こちらを見て、それから電話口に向かって短く何かを言ったあと、切電した。


「夜遅くにすまないね」と朔也は言った。


 穏やかだった。動揺していなかった。聞かれた、という気配がなかった。聞かれても構わない、ということかもしれなかった。そうではないかもしれなかった。


「いえ」と晴斗は言った。


 朔也が書斎の方に歩いていった。廊下に晴斗一人が残った。


     * * *


 台所で水を飲んだ。


 「エレーナ」という名前が、頭の中に残っていた。


 外国語の名前だった。日本語の名前ではなかった。朔也が「さん」をつけていた。朔也が「さん」をつける相手は、目上か、対等以上の相手だった。朔也が誰かを目上として扱う場面を、晴斗は見たことがなかった。宗一にも、他の誰にも、朔也は常に穏やかで対等だった。


 「さん」をつけた。


 「もう少し時間をいただければ」と言った。


 時間を、いただく。誰かに何かを急かされている言い方だった。朔也が急かされている。朔也が追い詰められているかどうかは分からなかった。でも「もう少し」という言い方は、余裕がある人間の言い方ではなかった。


 名前を、メモしようとした。


 メモする意味があるかどうかは分からなかった。意味があるかどうか分からないまま、メモする手が動いた。


     * * *


 部屋に戻って、引き出しから紙を出した。


 「エレーナ」と書いた。


 カタカナで書いた。ローマ字では書かなかった。綴りが分からなかった。


 書いてから見た。


 紙の上に「エレーナ」という名前だけがあった。前後に何もなかった。誰なのか、何者なのか、朔也とどういう関係なのか、何も書いていなかった。書けなかったのではなく、書けることが何もなかった。


 引き出しに入れた。

 走り書きのメモは捨てなかった。


     * * *


 眠れなかった。


 「エレーナ」という名前が、眠れない理由かどうかは分からなかった。分からないまま、天井を見た。


 朔也が「もう少し時間を」と言った。


 何の時間を、誰に求めていたのか。それが終われば何が変わるのか。「もう少し」の先に何があるのか。


 全部、分からなかった。


 分からないことが、今夜はいつもより多かった。


 いつもより多い、ということは、いつも分からないことがある、ということだった。そういうことが日常になっていた。そういうことが日常になったのがいつからかを考えようとして、やめた。


 考えてもどこにも辿り着かないことを考えるより、眠った方がよかった。


 眠れなかったが、目を閉じた。


 「エレーナ」という名前が、暗闇の中に一度だけ来て、消えた。

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