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鏡淵の調律 ―揃わないまま、君と生きる―  作者: ちとせ鶫
第8章 崩壊の臨界(後半)

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第78話 玲良の正体

 音楽準備室の扉は、廊下から見ると半開きになっていることが多かった。

 五月中旬の昼過ぎ、夕莉はその前を通った。通り過ぎようとした。


 気になって立ち止まった。


 声がした。正確には声があった、という程度の音量だった。廊下まで届いてきたのではなく、扉が開いていたから聞こえた、という音だった。内容は聞き取れなかった。でも音の質から、二人いることは分かった。


 一人は玲良だった。


 声では分からなかった。扉の隙間から、立ち姿の一部が見えた。制服の袖だった。袖の端の刺繍が玲良のものだった。夕莉は玲良の制服の細部を記録に持っていた。


 もう一人の声は、聞こえなかった。聞こえなかった、というより、しゃべっていなかった。玲良だけが話していた。


 夕莉は廊下の壁を背にして、立ち止まった。


     * * *


 玲良の姿勢が見えた。

 肩の角度。顔の向きの推定。


 報告していた。


 報告というのは感想ではなかった。夕莉が出した結論だった。玲良が誰かに向かって何かを述べているとき、その「誰か」への体の向け方が、対等な相手への向け方ではなかった。少し前傾みだった。視線が少し下がっていた。聞かせているのではなく、届けていた。届けることを選んでいた体だった。


 相手が誰かは、声がしなかったから、分からなかった。


 夕莉は三秒だけその場にいた。三秒で十分だった。


 そして歩き始めた。


     * * *


 放課後、ノートを開いた。


 「05/×× 朝倉玲良:朔也との接触確認・報告関係・推定」と書いた。


 「推定」という言葉が正確かどうか、三秒考えた。「確認」に変えようとして、やめた。相手が朔也だという確認はまだ取れていなかった。声が聞こえなかった。姿も見えなかった。立ち方から導いた結論だった。結論は結論として書く。推定は推定として書く。混ぜない。


 だから「推定」のままにした。


     * * *


 翌日の放課後、澪に報告した。


 空き教室、斜め後ろの席、いつもの位置だった。夕莉が書いたままの言葉で伝えた。「音楽準備室の前。玲良が誰かに報告していた。相手の姿は見えなかった。声も聞こえなかった。体の姿勢から、報告関係と推定」


 澪が一拍置いた。


「知ってたわ」と澪は言った。


 夕莉は澪を見た。斜め後ろから正面に近い角度に体を向けた。


「なぜ、言わなかったんですか」

「晴斗くんに近い人間を動かすより」と澪は言った。「観測し続けた方が、使える情報が多い」


 使える。


 その言葉が夕莉の中に入ってきた。入ってきて、どこにも収まらなかった。否定する言葉が来なかった。でも肯定する言葉も来なかった。ただ、収まらないまま、そこにあった。


「分かりました」と夕莉は言った。


 それだけ言った。


     * * *


 帰り道、ノートを開いた。


 「使える情報が多い」という澪の言葉を書こうとした。


 書かなかった。

 書きたくなかったから。

 書きたくない、という感情があった。感情があることは分かっていた。感情をノートに書くかどうかを、考えなかった。その考えに至るのに三秒も要らなかった。


 ノートを閉じた。


     * * *


 同じ日の夕方、ほのかは電柱の前で止まっていた。


 二人は知らなかった。


 ほのかのノートにも、同じ日、「玲良・朔也との接触・確認」という文字が加わっていた。どちらが先に気づいたか、どちらの記録が正確か、二人は知らなかった。


 知らないまま、二つのノートに同じことが書かれていた。


 並走していた。

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