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鏡淵の調律 ―揃わないまま、君と生きる―  作者: ちとせ鶫
第8章 崩壊の臨界(後半)

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第77話 ほのかの限界線

 五月の廊下は、昼休みの声で満ちていた。


 ほのかが来たのは、教室に戻ろうとした瞬間だった。廊下の端から、歩いてきた。晴斗の方に向かって、まっすぐ来た。遠回りをしていなかった。まっすぐ来るということが、珍しかった。


「晴斗くん」と呼んだ。


 今まで、ほのかは晴斗をそう呼んだことがなかった。いつもの「晴くん」でも、「瀬戸くん」でもなかった。「晴斗くん」だった。その呼び方が、今日の話が夕奈を間に挟まない話だということを最初に示していた。


「少し、時間いい?」


 声が低かった。低いというより、平らだった。感情を乗せないようにしているのではなく、乗せる前に整理されていた、という声だった。


「うん」と晴斗は言った。


     * * *


 廊下の端に移動した。


 ほのかは手帳を持っていなかった。いつも手帳があった。なかった。手帳がないということが、今日は記録ではなく話しに来た、ということを意味していた。


「夕奈ちゃんの髪」とほのかは言った。「最近、触った?」


 一拍の間があった。


 「軽すぎる」という感覚が来た。あの夜に来て、消えないまま残っていたものが、今日の昼に、ほのかの一言で戻ってきた。


「触ったよ」と晴斗は言った。

「どう思った?」


 答えられなかった。


 「気のせい」と言えば、「気のせいじゃない」が来ることが分かっていた。「軽かった」と言えば、それを言葉にした瞬間に、言葉にする前より重くなる何かがあることが分かっていた。どちらも言えなかった。


 沈黙が続いた。

 ほのかは続きを急かさなかった。


     * * *


「私も触った」とほのかは言った。「夕奈ちゃんが転んだとき、手を貸したから。そのとき、手が——」


 そこで言い淀んだ。


 そして、ほのかは空を見た。廊下の窓の外、五月の空だった。三秒くらい見つめ、さらに三秒で経って戻ってくる。


「異常に軽かったんや」とほのかは言った。「人の手の重さじゃないんよ」


 晴斗は何も言わなかった。


 言えなかったのではなかった。ほのかが言ったことが、自分の中にあったものと同じだったから、言葉が来なかった。同じものを持っている人間が目の前にいた。同じものを、ほのかは別の日に、別の場所で受け取っていた。


「手帳に書いた」とほのかは言った。「書いてから、少し経ってから、手帳を持ってここに来たくなった。でも今日は持ってこなかった」


 晴斗はほのかを見た。


「記録じゃなくて、話したかったから」


     * * *


 少し間があった。


 廊下を誰かが通った。二人の間を通った。通った人間は二人を見なかった。見なかったことが、二人の間にある何かを守っていた。


「私には」とほのかは言った。


 声が平らなまま続いた。


「止める方法が、分からない」


 助けを求めているのか、現状報告なのか、分からない言い方だった。どちらとも取れる声だった。どちらかに決めてほしいと思っているかどうかも、分からなかった。


 ただ、一つだけ分かったことがあった。

 ほのかが、ここまで来ている。


 ここまで、というのが何を指すかを言葉にできなかった。でもここまで来ている、という感触だけは届いた。届いたものが、晴斗の中で何かに触れた。


「俺も」と晴斗は言った。

「うん」とほのかは言った。


 それだけだった。


     * * *


 ほのかが歩き出した。


 来たときと同じ方向に戻っていった。手帳は持っていなかった。持ってこなかった。でも帰り道の電柱の前で止まって、ポケットから何かを出すだろう、と晴斗は思った。思った瞬間、思ったことを確認しようとして、やめた。


 晴斗は廊下に立っていた。


 「止める方法が分からない」という言葉が、まだそこにあった。


 ほのかが言ったことと、自分が思っていたことが、今日初めて同じ場所に来た。同じ場所に来たことが、何かを楽にした。楽にしたことが、何かを重くした。楽と重さが、同時にあった。


 どちらかだけではなかった。


 そういうものだと思った。

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