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鏡淵の調律 ―揃わないまま、君と生きる―  作者: ちとせ鶫
第8章 崩壊の臨界(後半)

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第76話 数字の変容

 洗面所は、朝の九時十四分だった。


 夕莉はその時刻を後から確認した。確認したのは記録のためだった。記録は事後でもできる。でも感覚は事後では取れない。だから感覚の部分は、洗面所を出てから十分以内に書いた。


     * * *


 朝の洗面所に、まず夕莉が入った。

 鏡の前に立った。歯ブラシを持った。それだけの動作。


 扉が開いた。夕奈が入ってきた。


 「あ、夕莉」と夕奈は言った。

 「おはよう」と夕莉は言った。

 「うん、おはよう」と夕奈は言った。


 その間、夕莉は鏡を見ていた。


 鏡の中に、夕莉と夕奈が映っていた。それだけのことだった。それだけのことの、はずだった。


 実際は違った。


 鏡の中の夕奈が、現実の夕奈より少し前にいた。洗面所に入る前に。


     * * *


 少し、というのが正確かどうかは分からなかった。


 距離で言えば半歩分か、それ以下だった。でも距離の問題ではなかった。鏡というものは現実を反射する。反射だから、現実と同じ位置に映像がある。鏡の中の夕奈が現実の夕奈と同じ位置にいなければ、それは反射ではない。反射ではないものが、鏡の中にあった。


 夕莉は歯ブラシを持ったまま止まった。


 止まったことを、夕奈は気づいていなかった。夕奈は洗面台の横で自分の髪を触っていた。現実の夕奈が髪を触った。鏡の中の夕奈も髪を触った。一拍、遅れた。


 動作の順番が、逆だった。

 現実が先で、鏡が後ではなかった。鏡が先で、現実が後だった。


 夕莉は記録した。記録は頭の中でした。後で書く。今は見て記録する。


     * * *


 夕奈が洗面所を出た。


 夕莉はしばらくそこに立っていた。鏡を見た。自分だけが映っていた。自分は一人しかいなかった。鏡の中の自分も一人だった。一致していた。


 九時十四分だった。


 部屋に戻った。ノートを出した。開いた。


 記録欄に書いた。「04/××:09:14:洗面所・鏡・先行動作・1拍」。先行動作、という言葉が正確かどうかを三秒考えた。他に適切な言葉が来なかったから、そのまま書いた。「気がした」は書かなかった。気がした、は観測ではない。


 感情欄は、空白のままだった。


     * * *


 その日の放課後、澪に報告した。


 場所はいつもの空き教室だった。澪の斜め後ろに夕莉は座った。視線の外を選ぶのは、最初からそうしていた。向かい合うと、相手の表情が情報として入る。今は夕莉が持っている情報だけを正確に渡す必要があった。


「鏡の中の像が、先行していました」と夕莉は言った。「動作単位で一拍の先行。今朝が初めてです」


 澪が少し間を置いた。


「時間の先取りから、空間の先取りへ移行した、ということですね」と澪は言った。


 夕莉は頷いた。時間の先取り、という言い方は第7章の頃から澪が使っていた言葉だった。返事に一拍の空白が生まれる、という現象を指していた。空間の先取り、という言い方は今日初めて出た。


「数値化できますか」と澪は言った。


 夕莉は考えた。一拍という単位は感覚だった。感覚を数値にするためには基準が要る。


「拍を秒数に換算する基準があれば」と夕莉は言った。「ただし誤差が出ます」

「誤差込みで構いません」


 夕莉はノートを出した。「先行量をΔs(デルタs)と定義する。今朝の観測値:Δs=+1」と書いた。


 書いてから、その記号を見た。


 Δは変化量を示す記号だった。sは、ずれ、という意味で夕莉が選んだ。ずれ、が何のずれかは書かなかった。書かなくても、自分には分かった。


     * * *


 帰り道、澪とは別の方向に歩いた。


 空が薄い水色だった。雲が少なかった。四月の夕方は長い。


 怖い、という言葉が浮かんできた。

 頭の中に湧き上がってきた。声には出なかった。


 ノートを出した。電柱の前で止まった。感情欄を開いた。


 「怖い」と書くかどうかを、三秒考えた。


 怖い、は観測ではなかった。観測者が怖いと書くことが正しいかどうかを、三秒で判断できなかった。


 ノートを閉じた。


 「怖い」は書かなかった。書かなかったことで、なくなるわけではなかった。来た、という事実だけが残った。


 夕莉は歩き始めた。


 Δs=+1。


 その数字が、今日から存在していた。

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