第75話 春の異変
中学三年になった。
四月の教室は新しい席順で始まる。晴斗は窓際の三列目だった。夕奈は別のクラスだった。当たり前のことだった。中学に入ってから、夕奈と同じクラスになったことは一度もなかった。
朝のホームルームが始まろうとしていた。
担任が出席を取り始めた。三時間目が終わった頃、廊下に気配があった。
晴斗は気づかなかった。
昼休みに廊下に出たとき、気づいた。
夕奈が、扉の脇に立っていた。
* * *
立っていた。壁に背をつけて、晴斗のクラスの扉の横に立っていた。鞄を持っていた。昼食を摂った気配がなかった。
「夕奈」と晴斗は言った。
「お兄ちゃん」と夕奈は言った。
一拍の間があった。「お兄ちゃん」が出るまでに、確かに一拍の間があった。晴斗はそれを聞いた。聞いてしまったことを、すぐには処理しなかった。
「ここにいたの?」
「うん」
「ずっと?」
「うん」と夕奈は言った。「なんか、ここがよかった」
そこがよかった理由を、晴斗は聞かなかった。聞かなくても分かったから、ではなかった。聞いたら答えが来て、その答えを受け取る準備が、昼休みの廊下ではできていなかった。
* * *
翌日も、夕奈はそこにいた。
三時間目が終わった頃から、という観測をしたのは担任だった。担任が「自分のクラスに戻りなさい」と一度言った。夕奈が「はい」と言った。動かなかった。担任が二度目を言った。夕奈がまた「はい」と言った。「はい」が何を意味するかが、「はい」の後の動作と一致していなかった。
三度目を、担任は言わなかった。
晴斗はそのことを昼に知った。「三度目を言わなかった」という事実が何を意味するかを、夕奈の隣を歩きながら考えた。
誰かが諦めるとき、声をかけることをやめる。
担任が諦めたのか、それとも別の判断をしたのかは、晴斗には分からなかった。でも三度目がなかったということは、確かだった。
* * *
帰り道、夕奈と並んで歩いた。
五月の手前の風が、少し温かかった。桜はもう散っていた。木の葉が若い緑になっていた。夕奈がその葉を見ていた。見ているということは分かった。でも何かを「見ている」というより、そちらの方向に顔が向いている、という感じだった。
「夕奈」と晴斗は言った。
「うん」と夕奈は言った。顔は葉の方を向いたままだった。
「髪、乱れてる」
そう言いながら、手櫛で直そうと晴斗は手を伸ばした。夕奈の髪に触れた。
一瞬だった。
感触が異常に軽かった。
人の髪の重さではなかった——そういう感覚が来て、晴斗は手を止めた。止めてから、もう一度触れた。髪はそこにあった。指に感触があった。でも触れた最初の一瞬に来たものが、消えていなかった。
気のせいだ、と思った。
気のせいだと思うことが、今日できた。
それだけだった。
* * *
夜、ほのかからメッセージが来た。
「今日の昼、廊下にいた」
それが誰のことかは、説明がなくても分かった。
「知ってる」と晴斗は送った。
少し間があって、返信が来た。
「玲良、目撃回数が増えてる」
玲良が夕奈の周囲に現れる頻度が、という意味だった。
「分かった」と晴斗は送った。
返信はなかった。返信がないことが、返事だった。
* * *
その夜、晴斗は天井を見た。
「軽かった」という感覚が、まだあった。一瞬の感覚が、夜になっても消えていなかった。消えないということが、消えるはずのものが消えていない、ということだった。
気のせいだと思った。
朝もそう思った。夜もそう思った。
二度思ったということは、一度では足りなかった、ということかもしれなかった。そこまで考えて、考えることをやめた。やめることが今日できた。
明日も、できるかどうかは分からなかった。




