第74話 中学二年の三月
三月になった。
中学二年が終わろうとしていた。
何かが終わるということは、晴斗にはあまり実感がなかった。学年が終わる、学期が終わる、年が明ける——そういう区切りが、今の鏡淵ではどこか別の話のような気がした。季節は動いていた。日が長くなった。でも変わっていないものの方が多かった。
変わっていないものの中に、夕奈がいた。
変わっていない、というのは正確ではなかった。変わっているが、それが止まらないまま続いている、という表現の方が近かった。
* * *
ある日の夕方、帰り道に夕奈が止まった。
交差点の手前だった。信号は青だった。夕奈が、止まった。
「夕奈」と晴斗は言った。
夕奈が顔を上げた。顔を上げるまでに、一拍あった。
「信号、青だよ」
「あ」と夕奈は言った。「そっか」
歩き出した。青だから渡る、という順番ではなかった。晴斗が言ったから動いた、という順番だった。そのことを晴斗は見ていた。見ていて、何も言わなかった。
信号が赤になった。渡り切っていた。
* * *
朔也が家に来る頻度が増えていた。
週に一度が、二度になっていた。それ以上かもしれなかった。晴斗が知らない時間に来ている可能性があった。宗一の書斎に入って、しばらくして出ていく。それだけだった。何を話しているか、聞こえなかった。聞こえないことを、晴斗は聞こうとしなかった。聞こうとしないことが何を意味するかを、考えないようにしていた。
夕莉は来訪のたびに、廊下に出なかった。
部屋にいた。ドアを閉めていた。閉めていることを、晴斗は一度だけ確認した。確認したことを、夕莉には言わなかった。
朔也が帰るとき、玄関で「失礼します」という声がした。穏やかで、変化がなかった。
その声が聞こえるたびに、晴斗の中の何かが、少し小さくなった。何が小さくなっているかは分からなかった。でも確実に、何かが削れていた。
* * *
ほのかからメッセージが来た。
「今日、少し話せる?」
放課後、校舎の裏に来た。二人だった。ほのかが手帳を持っていた。開かなかった。
「夕奈ちゃんに、直接聞いた」とほのかは言った。
「何を」
「好きな食べ物」
晴斗は黙った。
「答えられへんかった」とほのかは言った。「答えようとして、止まった。一回止まって、また止まった。それで終わった」
好きな食べ物が言えない。
そのことは、晴斗には分かっていた。分かっていて、確認しなかった。確認しなかったことが、確認を避けていたということかどうかを、今日まで決めてこなかった。
「私には」とほのかは言った。「もう、できることが分からん」
声が揺れなかった。揺れないことが、揺れている声よりも重かった。
「ほのか」と晴斗は言った。
「うん」
続きが出なかった。出てくる言葉が、何もなかった。「ありがとう」も「ごめん」も「俺も分からない」も——どれも今言う言葉ではなかった。
ほのかが手帳を閉じた。ずっと開いていなかったのに、閉じた。
「言えてよかった」とほのかは言った。「晴くんに言えてよかった」
それだけだった。ほのかが歩き出した。晴斗は動けなかった。
* * *
夜、夕奈の部屋の前を通った。
灯りが点いていた。音はなかった。テレビでも、音楽でも、何かを読む気配でもなかった。ただ、灯りだけがあった。
ドアをノックしようとして、躊躇った。
ノックして、ドアを開けたら、夕奈がそこにいる。そこにいて、「お兄ちゃん」と言う。「お兄ちゃん」という言葉の重さを、晴斗は今日また知っている。知っていて、それでもドアを開ける。
そういうことが、続いている。
続いていることが、正しいかどうかを——晴斗はドアの前で、一度だけ考えた。
答えは出なかった。出ないまま、ドアをノックした。
「夕奈」
「お兄ちゃん」という声がした。
ドアを開けた。
* * *
中学二年が終わった。
春が来た、と誰かが言った。言ったのが誰かは分からなかった。学校の帰り道で聞こえた声だった。そうだな、と晴斗は思った。
春が来た。
中学三年になる。夕奈と同じ学校に、また一年いる。朔也が週に二度来る。宗一が書斎にいる。夕莉がノートを開く。ほのかが手帳を持って電柱の脇に止まる。
変わったものと変わらないものが、どちらも続いていく。
晴斗は歩いた。
隣に夕奈がいた。袖を掴んでいなかった。でも半歩後ろにいた。半歩後ろにいることが、袖を掴んでいることと、同じだった。
春の光が低くて、影が前に伸びた。
二つの影が、並んでいた。




