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鏡淵の調律 ―揃わないまま、君と生きる―  作者: ちとせ鶫
第7章 形のない喪失

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第73話 座標

 二月になった。


 夕奈が食事を残すようになった。


 残すというより、途中で箸が止まった。止まったまま、食べ続けようとして、できなくなった。「どうした」と晴斗が聞くと、「ちょっと」と言った。「ちょっと」というのが何を指しているかは、分からなかった。「おなか空いてないの」と尋ねると、「そうかも」と言った。そうかもという言い方が、確認の言葉ではなかった。言われたから同意した、という種類の言葉だった。


 夕莉がそれを見ていた。


 晴斗は夕莉と目が合った。夕莉はすぐに視線を皿の方へ戻した。戻したとき、少し口が動いた。何かを言いかけて、言わなかった。


 宗一は気づいていなかった。気づいていなかったというより、気づく機能が、今の宗一にはなかった。


     * * *


 ある日、下校のとき夕奈が転んだ。


 不意の出来事だった。石畳の継ぎ目につまずいて、右手をついた。晴斗が駆け寄って「大丈夫か」と言った。夕奈が手を見た。手のひらに傷がついていた。小さい傷だった。


「痛い?」と晴斗は聞いた。


 夕奈が少し考えた。


 考えているということが、晴斗には分かった。「痛い」かどうかを考えているということが。「痛い」かどうかは考えるものではなかった。来るか来ないか、どちらかだった。


「分かんない」と夕奈は言った。


 晴斗は何も言えなかった。


「痛いのかな、これ......」と夕奈は傷を見ながら言った。見ているのに確認できていない、という言い方だった。


「けがしているし、痛いと思うよ」と晴斗は言った。


「そっか」と夕奈は言った。「じゃあ、痛いのかな」


     * * *


 そのことをほのかに送った。


 夕方、「下校時に転んだ。痛いかどうか分からんって言ってた」とだけ送った。


 返信は夜に来た。


「知ってる」


 それだけの内容だった。


 知ってる、という返信が何を意味するか、晴斗には分かった。ほのかがすでに見て知っていたということだった。観測していて、でも何もできなかった、ということだった。「知ってる」の三文字に、その両方が入っていた。


 晴斗は返信しなかった。返信できる言葉がなかった。


     * * *


 夜、晴斗が台所で水を飲んでいたら、夕奈が来た。

 廊下を歩く音がして、台所のドアが開いた。夕奈が入ってきた。晴斗のことを見た。


「お兄ちゃん」と言った。

「うん」と晴斗は言った。


 夕奈が晴斗の隣に来た。何をしに来たか、言わなかった。何かを取りに来た様子でもなかった。晴斗の隣に来て、そこで止まった。


「どうした?」と晴斗は尋ねた。

「なんか」と夕奈は言った。「ここに来たくなったの」

「ここって台所?」と晴斗は聞いた。

「お兄ちゃんのとこ」と夕奈は言った。


 それだけ。


 晴斗は何も言わなかった。何も言えなかったのか、言わないと決めたのか、その夜は分からなかった。夕奈がそこにいた。晴斗の隣に、ただいた。それが、夕奈にとって何かを意味しているということは分かった。


 何を意味しているかは——名前をつけることが、怖かった。


     * * *


 夕莉が晴斗の部屋に来たのは、その三日後だった。


 ドアをノックして、「少しいい?」と尋ねた。入ってきて、ドアを閉めた。椅子には座らなかった。立ったまま、晴斗を見た。


「お姉ちゃんの体温、測ってみて」と夕莉は言った。

「体温?」

「風邪とかじゃないんだけど、とくかく測ってほしいの。そして私に結果を教えて」


 理由を説明しなかった。晴斗は何も聞かなかった。聞けなかった、というより、聞いたら続きが来ると思った。続きが来る準備が、まだできていなかった。


「分かった」と晴斗は言った。


 夕莉が頷いた。ドアを開けて出ていった。振り返らなかった。


     * * *


 翌朝、体温計を夕奈に渡した。


 「なに?」と尋ねられたので、「ちょっと、体温を測ってみろ」と言った。「うん」と素直に夕奈は言って、体温計を受け取った。


 しばらくして、ピピッと電子音が鳴り、脇から取り出した体温計を受け取る。

 画面に数字が出ている。


 三十五度四分だった。


 普通より低い。でも低体温というほどではない。そういう数字だった。「低いな」と晴斗は言った。「そう?」と夕奈は言った。低いことについて何も感じていない言い方だった。


 その数字を夕莉に見せた。夕莉はしばらく数字を見ていた。


「ありがとう」と夕莉は言った。ノートを出して、何かを書いた。晴斗には見せなかった。晴斗も見ようとしなかった。


     * * *


 ほのかが声をかけてきたのは、放課後だった。


 廊下で二人になった一瞬に、「今、少しいい」と言った。晴斗が頷くと、ほのかは一拍置いてから話し始めた。


「夕奈ちゃんに声かけても、最近、ちょっと反応が遅い」

「遅い?」

「声がしてから、こっち向くまで」


 晴斗には分かった。


 分かったということが、分かることへの慣れを示していた。慣れているということが、どういうことかを考えかけて、やめた。


「それ、いつから」と晴斗は聞いた。

「二週間くらい前から、かな」とほのかは言った。「少しずつ、長うなってる」


 廊下に誰かが来た。会話が終わった。ほのかが歩き出した。


 晴斗はそこに立ったまま、少しの間、動けなかった。


 二週間。少しずつ、長くなっている。


 そのどちらも、晴斗には分かっていた。分かっていて、言葉にしなかった。ほのかが言葉にしたから、今、晴斗の中にある。


 言葉になったことが、なかったことには戻らなかった。

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