第72話 最後の防波堤の崩壊
変わったのは、少しずつだった。
だから気づきにくかった。気づきにくいように変わっていたわけではない、と思う。ただ、少しずつだったから、どこからが変わった後かを指定できなかった。
夕奈が「お兄ちゃん」と言うとき、その声の重さが変わっていた。
以前の「お兄ちゃん」は、呼びかけだった。晴斗に向けられる言葉だった。今の「お兄ちゃん」は——呼びかけでもあったが、それだけではなかった。もう少し別の何かが乗っていた。晴斗には名前がつけられなかった。名前がつけられないまま、受け取り続けていた。
お茶を入れた。夕奈が来た。「ありがとう、お兄ちゃん」と言った。
ありがとう、という言葉よりも、お兄ちゃん、という言葉の方が重かった。
そういうことが、増えていた。
* * *
宗一は書斎にいることが多くなった。
朝の食卓には出てきた。ご飯を食べた。でも食べることと、そこにいることが、少し分離しているようだった。
機械のように繰り返し、箸を持って、何かを口に運んで、飲み込んだ。それだけの反復だった。
「おはよう」のあいさつを返す日と言わない日があった。晴斗はどちらの日でも同じように返事をした。同じように返事をすることが何を意味するかを、考えないようにしていた。
夕莉は、見ていた。
食卓で夕莉がどこを見ているか、晴斗には分からなかった。宗一を見ているとも、夕奈を見ているとも、思えなかった。ただ、何かを測っているような目だった。記録している目、と思った瞬間、その考えを打ち消した。妹をそういう目で見るのは違う、と思った。でも、打ち消した後に残ったものは、打ち消す前と同じだった。
* * *
一月の終わり頃だった。
夕奈が「東京って、まだあるのかな」と言った。
晴斗は返事をしなかった。返事を考えたが、「あるよ」と言うことが正しいかどうか分からなかった。「まだある」という問いの立て方が、何かを前提にしていた。何を前提にしているかを、直接聞けなかった。
「どうして?」と晴斗は聞いた。
「なんか」と夕奈は言った。「ここにずっといると、ここより前があったかどうか、分からなくなってくるの」
晴斗は黙った。
「お兄ちゃんは覚えてる?」
「覚えてる」と晴斗は言った。
「そっか」と夕奈は言った。「じゃあ、いいや」
そこで会話が終わった。「じゃあいいや」という言葉が何を意味するかを、晴斗は夜になってから考えた。晴斗が覚えているから、自分は覚えなくていい、という意味に聞こえた。そういう意味ではないかもしれなかった。そういう意味だったとしたら——そこで考えが止まった。
* * *
「東京にいれば」という言葉が、ある朝、頭の中に来た。
来てから、すぐには消えなかった。
「東京にいれば」——何が違ったか。晴斗には分からなかった。でも違ったかもしれない、という感触が来た。感触の中身を言葉にしようとして、できなかった。できないまま、その感触は一日の中にあった。昼になっても、夕方になっても、消えていなかった。
夕奈が隣にいた。
夕奈がそこにいることが、晴斗には「当たり前のこと」として処理されていた。当たり前のこととして処理していた自分が、当たり前にしてしまったのかもしれなかった。そういう考えが来た。
「俺が、こうしてしまったのかもしれない」
声に出さなかった。頭の中だけで来て、頭の中だけにあった。来たとき、否定できなかった。否定する言葉が来なかった。「そんなことはない」という言葉が来るべき場所に、何も来なかった。
それがずっと残った。
* * *
朔也が来たのは、二月の初めだった。
インターホンが鳴って、晴斗が出ようとしたら夕莉がもう廊下に出ていた。夕莉が玄関のドアの前まで行って、そこで止まった。「夕莉」と晴斗が呼んだら、「お父さんに出てもらう」と言った。いつもそういう判断をするわけではなかった。このとき夕莉がそういう判断をしたということを、晴斗は覚えておこうと思った。
宗一が書斎から出てきた。スーツではなかった。普通の格好で、でも乱れてはいなかった。玄関を開けた。
朔也の声が聞こえた。
「夜分に失礼します」という声だった。静かで、穏やかで、変化がなかった。
夕莉は廊下の半ばで立ったまま動かなかった。晴斗は居間の入り口から廊下を見ていた。夕奈は晴斗の隣にいた。
宗一と朔也が書斎に入った。ドアが閉まった。
廊下に夕莉が残った。夕莉はドアの方を見ていた。見ていることに気づいて、見ていることをやめた。やめてから、また見た。
書斎の中の音は聞こえなかった。
一度だけ、ペンが何かに触れる音がした。
それだけのことだった。
* * *
朔也が帰った後、宗一は書斎から出てこなかった。
夕莉がしばらく廊下に立っていて、それから台所に行った。水を飲む音がした。
夕奈は、晴斗の袖を掴んでいた。
いつから掴んでいたか、分からなかった。「お兄ちゃん」とは言わなかった。掴んだまま、何も言わなかった。
晴斗は夕奈の手を見た。
指の関節が白くなるほどの力ではなかった。でも手を引いても離れない力だった。そういう力で、掴まれていた。
恵子がいたとき、この力は少し違った。そう思った。
恵子がいなくなってから、違いに名前がついた。名前がついてから、その名前を晴斗は一度も声に出さなかった。声に出せなかったのか、出さないと決めたのか、自分では分からなかった。
夕奈の手が、そこにあった。
晴斗は何も言わなかった。




