表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鏡淵の調律 ―揃わないまま、君と生きる―  作者: ちとせ鶫
第7章 形のない喪失

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
73/95

第72話 最後の防波堤の崩壊

 変わったのは、少しずつだった。


 だから気づきにくかった。気づきにくいように変わっていたわけではない、と思う。ただ、少しずつだったから、どこからが変わった後かを指定できなかった。


 夕奈が「お兄ちゃん」と言うとき、その声の重さが変わっていた。


 以前の「お兄ちゃん」は、呼びかけだった。晴斗に向けられる言葉だった。今の「お兄ちゃん」は——呼びかけでもあったが、それだけではなかった。もう少し別の何かが乗っていた。晴斗には名前がつけられなかった。名前がつけられないまま、受け取り続けていた。


 お茶を入れた。夕奈が来た。「ありがとう、お兄ちゃん」と言った。


 ありがとう、という言葉よりも、お兄ちゃん、という言葉の方が重かった。


 そういうことが、増えていた。


     * * *


 宗一は書斎にいることが多くなった。


 朝の食卓には出てきた。ご飯を食べた。でも食べることと、そこにいることが、少し分離しているようだった。

 機械のように繰り返し、箸を持って、何かを口に運んで、飲み込んだ。それだけの反復だった。

 「おはよう」のあいさつを返す日と言わない日があった。晴斗はどちらの日でも同じように返事をした。同じように返事をすることが何を意味するかを、考えないようにしていた。


 夕莉は、見ていた。


 食卓で夕莉がどこを見ているか、晴斗には分からなかった。宗一を見ているとも、夕奈を見ているとも、思えなかった。ただ、何かを測っているような目だった。記録している目、と思った瞬間、その考えを打ち消した。妹をそういう目で見るのは違う、と思った。でも、打ち消した後に残ったものは、打ち消す前と同じだった。


     * * *


 一月の終わり頃だった。


 夕奈が「東京って、まだあるのかな」と言った。


 晴斗は返事をしなかった。返事を考えたが、「あるよ」と言うことが正しいかどうか分からなかった。「まだある」という問いの立て方が、何かを前提にしていた。何を前提にしているかを、直接聞けなかった。


「どうして?」と晴斗は聞いた。


「なんか」と夕奈は言った。「ここにずっといると、ここより前があったかどうか、分からなくなってくるの」


 晴斗は黙った。


「お兄ちゃんは覚えてる?」

「覚えてる」と晴斗は言った。

「そっか」と夕奈は言った。「じゃあ、いいや」


 そこで会話が終わった。「じゃあいいや」という言葉が何を意味するかを、晴斗は夜になってから考えた。晴斗が覚えているから、自分は覚えなくていい、という意味に聞こえた。そういう意味ではないかもしれなかった。そういう意味だったとしたら——そこで考えが止まった。


     * * *


 「東京にいれば」という言葉が、ある朝、頭の中に来た。


 来てから、すぐには消えなかった。


 「東京にいれば」——何が違ったか。晴斗には分からなかった。でも違ったかもしれない、という感触が来た。感触の中身を言葉にしようとして、できなかった。できないまま、その感触は一日の中にあった。昼になっても、夕方になっても、消えていなかった。


 夕奈が隣にいた。


 夕奈がそこにいることが、晴斗には「当たり前のこと」として処理されていた。当たり前のこととして処理していた自分が、当たり前にしてしまったのかもしれなかった。そういう考えが来た。


 「俺が、こうしてしまったのかもしれない」


 声に出さなかった。頭の中だけで来て、頭の中だけにあった。来たとき、否定できなかった。否定する言葉が来なかった。「そんなことはない」という言葉が来るべき場所に、何も来なかった。


 それがずっと残った。


     * * *


 朔也が来たのは、二月の初めだった。


 インターホンが鳴って、晴斗が出ようとしたら夕莉がもう廊下に出ていた。夕莉が玄関のドアの前まで行って、そこで止まった。「夕莉」と晴斗が呼んだら、「お父さんに出てもらう」と言った。いつもそういう判断をするわけではなかった。このとき夕莉がそういう判断をしたということを、晴斗は覚えておこうと思った。


 宗一が書斎から出てきた。スーツではなかった。普通の格好で、でも乱れてはいなかった。玄関を開けた。


 朔也の声が聞こえた。


「夜分に失礼します」という声だった。静かで、穏やかで、変化がなかった。


 夕莉は廊下の半ばで立ったまま動かなかった。晴斗は居間の入り口から廊下を見ていた。夕奈は晴斗の隣にいた。


 宗一と朔也が書斎に入った。ドアが閉まった。


 廊下に夕莉が残った。夕莉はドアの方を見ていた。見ていることに気づいて、見ていることをやめた。やめてから、また見た。


 書斎の中の音は聞こえなかった。


 一度だけ、ペンが何かに触れる音がした。


 それだけのことだった。


     * * *


 朔也が帰った後、宗一は書斎から出てこなかった。


 夕莉がしばらく廊下に立っていて、それから台所に行った。水を飲む音がした。


 夕奈は、晴斗の袖を掴んでいた。


 いつから掴んでいたか、分からなかった。「お兄ちゃん」とは言わなかった。掴んだまま、何も言わなかった。


 晴斗は夕奈の手を見た。


 指の関節が白くなるほどの力ではなかった。でも手を引いても離れない力だった。そういう力で、掴まれていた。


 恵子がいたとき、この力は少し違った。そう思った。


 恵子がいなくなってから、違いに名前がついた。名前がついてから、その名前を晴斗は一度も声に出さなかった。声に出せなかったのか、出さないと決めたのか、自分では分からなかった。


 夕奈の手が、そこにあった。


 晴斗は何も言わなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ