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鏡淵の調律 ―揃わないまま、君と生きる―  作者: ちとせ鶫
第7章 形のない喪失

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第70話 向こう側

 放課後の空き教室は、冬の光だった。


 北向きの窓から差す光が斜めで、埃が浮いているのが見えた。夕莉が扉を開けたとき、その埃が少し動いた。扉を開けた風で動いた。扉を開ける前から、誰かが中にいた。


 如月澪が、窓際の席に座っていた。


 「11月19日(水):如月澪・不在・説明なし」から、一ヶ月と十七日が経っていた。夕莉は計算していた。計算しようとしたわけではなかった。ただ、数字が来た。


     * * *


 夕莉は扉を閉めた。


 澪が振り向かなかった。窓の方を向いたままだった。夕莉は教室の中ほどまで入って、止まった。座ろうか、と思った。どこに座るかを一秒考えて、澪の斜め後ろの席を選んだ。澪の視線の外に入る位置だった。


 沈黙があった。


 沈黙の種類を、夕莉は聞きながら判断した。何かを待っている沈黙だった。夕莉が来るのを待っていた——かどうかは分からなかった。でも誰かが来るのを待っていた沈黙だった。それは分かった。


「見てたんだね、ずっと」


 澪が言った。窓の方を向いたまま言った。


 夕莉は答えなかった。答えが「はい」であることを、二人とも知っていた。


     * * *


 澪が夕莉の方を向いた。


 顔が変わっていた。疲労とは違った。疲労は外から削られる変化だ。澪の顔の変化は内側から来ていた。何かを見た人間の顔だった。「向こう側を見てきた人間の顔」だと夕莉は思った。見てきた内容は分からない。でも「見た」という事実が顔に刻まれていた。


 澪が話し始めた。声は標準語だった。説明するための声だった。


 十一月十九日の前から、学校の裏手の調査を続けていた。朔也の実験の干渉が空間の境界に作用している証拠を集めていた。その過程で——澪は少し止まった。「引き込まれた」と言った。「異界、と呼ぶのが正確かどうか分からないけど、そこに。一ヶ月以上、いた」。


「出てこられた」と夕莉は言った。


「出てこられた」と澪は言った。繰り返しではなかった。確認だった。「出方は話さない」と続けた。


 夕莉はそれ以上聞かなかった。聞かないことが正しいと判断した。「出方は話さない」という言葉には、聞いても答えが来ないという意味と、聞かれたくないという意味の両方が含まれていた。どちらかは判断しなかった。どちらでも、聞かないことが正しかった。


     * * *


「恵子さんのことも、知っている」


 澪が言った。


 夕莉は动かなかった。


「朔也の実験の余波が、信号系に干渉した。タイミングが悪かった。——悪いタイミングが、意図的に作られたものかどうかは、まだ分からない」


 最後の一文を、澪はゆっくり言った。「まだ分からない」という留保が正確に置かれた。推測を事実として話す人間ではなかった。


「晴斗くんには言わないで」と澪は言った。


「なぜ?」と夕莉は問う


「今の晴斗くんに届けても、動けない。動けない人間に重いものを渡すと、潰れる」


 夕莉はそれを聞いた。「動けない」という判断の根拠を聞こうとして、止まった。根拠を聞く必要がなかった。夕莉も同じ判断をしていたからだ。第7章第3節の夜、食卓で箸が止まった晴斗を見ていた。今の晴斗に届けても、という澪の言葉は、夕莉が観測していた事実と一致した。


「分かった」とだけ夕莉は答えた。


     * * *


 澪が立った。帰るつもりだった。扉に向かって歩きながら、少しだけ止まった。


「あなたが記録していることは、いつか役に立つと思う」


 それだけ言って、出ていった。


 夕莉は空き教室に一人残った。


 ノートを出した。


 開いた。


 日付を書こうとして、止まった。「01月05日(月)」と書くことはできた。場所、時刻、人物——全部、書けた。「01月05日(月)・放課後・空き教室・如月澪・生還確認・異界・恵子・信号干渉・晴斗への情報保留」。


 書かなかった。


 書けなかったのではない。書かなかった。


 ノートを開いたまま、しばらく持っていた。窓の外の冬の光が、少し傾いていた。埃はもう動いていなかった。


 ノートを閉じた。

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