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鏡淵の調律 ―揃わないまま、君と生きる―  作者: ちとせ鶫
第7章 形のない喪失

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第69話 空白の移行

 正式な連絡が来た日のことを、晴斗はよく覚えていない。


 覚えているのは、書斎のドアが開いた音と、宗一が廊下に出てきたときの顔だ。それだけを覚えていて、その前後の時間は薄くなっている。何時だったか、自分がどこにいたか、夕奈がいたかどうか——全部が、霧の中にある。


 宗一の顔が変わっていた。


 秋口の、書斎の朝食で見たあの目とは違った。あのときの宗一は「考えることを手放した目」をしていた。手放した人間には、手放す前に持っていた何かの残骸が残る。今日の宗一には、それもなかった。


 空になっていた。


 何かを諦めた顔ではなかった。諦めるためには、諦める対象が必要だ。空になった顔には対象がなかった。ただ、空だった。


   * * *


 宗一がダイニングの椅子に座った。


 動かなくなった。


 晴斗はお茶を淹れた。湯を沸かして、急須に入れて、湯呑に注いだ。宗一の前に置いた。


 宗一は気づかなかった。


 湯呑が目の前にあるのに、見ていなかった。目は開いていた。でも何かを見ているわけではなかった。開いているだけだった。


 晴斗は宗一の向かいに座って、一緒にいた。何かを言おうとした。言葉が来なかった。「大丈夫か」も「何かあったか」も——どれも今の宗一に向かう言葉ではなかった。今の宗一には届かない形をしていた。


 お茶は冷めた。宗一は飲まなかった。


     * * *


 夜の九時を過ぎた頃、玄関の呼び鈴が鳴った。


 朔也だった。


 スーツだった。時間の割に乱れがなかった。「夜分に失礼します」と言った。穏やかな声だった。いつもと同じ声だった。晴斗が玄関を開けたとき、朔也は一瞬だけ晴斗を見た。一瞬だけ。それからすぐ、書斎の方へ目を向けた。


「宗一先生はいらっしゃいますか」


 晴斗は書斎のドアをノックした。宗一が出てきた。朔也を見た。何も言わなかった。朔也が書類を出した。薄いファイルだった。


 二人は書斎に入った。ドアが閉まった。


 晴斗は廊下に立っていた。


 ドアの向こうで声がした。朔也の声が、何かを説明していた。内容は聞こえなかった。声のトーンだけが聞こえた。説明は長くなかった。五分か、七分か——廊下で立ったまま時間を数えていたが、正確には分からなかった。


 ペンが書類の上を走る音がした。


 一度だけ。


 それで終わった。


     * * *


 朔也が書斎から出てきた。


 ファイルを持っていた。来たときより厚みがあった——署名されたページが加わったからだ、と後から晴斗は思った。この瞬間には、そこまで考えられなかった。


「お邪魔しました」と朔也は言った。晴斗の方を向いて、言った。声は穏やかだった。表情は変わらなかった。


 玄関を出て、車に乗って、いなくなった。


 晴斗は玄関のドアを閉めた。廊下に戻った。書斎のドアは閉まっていた。中に明かりがあった。宗一がいた。でも出てこなかった。


 「これで終わりだ」と思った。


 何が終わりなのか分からなかった。何かが動いた、という感触だけがあった。朔也が来て、何かを説明して、ペンの音がして、ファイルが厚くなって出ていった。それだけの事実が廊下に残っていた。


 夕奈が廊下の端に立っていた。


 いつからいたのか分からなかった。袖には触れてこなかった。ただ、廊下の端に立って、書斎のドアを見ていた。


「夕奈」と晴斗は言った。


 夕奈が振り向いた。一拍か二拍、かかった。


「ご飯、食べるか」


 夕奈が「うん」と言った。


 二人で台所へ行った。書斎の明かりは、夜の間ずっと消えなかった。

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