第68話 空白の朝
夜が明け、朝になった。
朝になり、台所に向かう。台所に行って、食卓に座る。座って、箸を持った。それ以外の理由は、なかった。
恵子の椅子は引かれたままだった。
誰も座らなかった。誰も動かさなかった。引かれたまま、食卓の端にあった。椅子の上には何もなかった。何もない椅子が、空白として、ただそこにあった。
* * *
宗一が来た。
いつもより遅かった。シャツのボタンが一つ、ずれていた。気づいていないのか、気づいていて直せないのか、晴斗には判断できなかった。
宗一は座った。箸を取った。椀を持った。一口、飲もうとして、飲まなかった。椀をテーブルに置いた。箸を置いた。お茶だけ、一杯飲んだ。
そして立ち上がった。
「すまない」と宗一は言った。
誰に言ったのか分からなかった。食卓に向かって言ったのかもしれなかった。食卓には晴斗と夕奈と夕莉がいた。その全員に言ったのかもしれなかった。誰にも言っていないのかもしれなかった。
宗一が書斎へ行った。ドアが閉まった。
* * *
夕奈は食事を摂った・
普通に食べていた。量も速度も変わらなかった。卵焼きを切って、口に入れて、ご飯を食べた。汁物を飲んだ。箸の動きに乱れがなかった。
晴斗はそれを見ていた。
怖かった。何が怖いのかを言葉にすることが、できなかった。「普通に食べている」という事実が怖かった。「何かが壊れた朝に、何も変わらずに食べている」という事実が怖かった。でもそれを怖いと言ってしまうことも、できなかった。
夕奈の左手が、晴斗の袖を掴んでいた。
食事の間、ずっと掴んでいた。右手で箸を持って、左手で袖を掴んで、食べ続けた。「行かないでね」とは言わなかった。そういう言葉は来なかった。ただ、手があった。袖を掴む手が、食事の間ずっとそこにあった。
晴斗は箸を持ったまま、食べられなかった。
* * *
夕莉は食べていた。
食べながら、食卓を見ていた。宗一の箸が置かれた時刻。夕奈の箸の速度。恵子の椅子が引かれたままである事実。晴斗が食べられていない事実。全部が、後でノートに書く形として、頭の中に並んでいた。
「いやだ」と思った。
一回だけ、来た。「いやだ」という言葉が、頭の中に来た。何が嫌なのかを言語化しようとして、止まった。「記録しようとしている自分が嫌だ」という言葉が来る手前で止まった。
止まったが、記録を止めることができなかった。
食卓を見ていた。全員の動きを見ていた。「いやだ」と思いながら、見ていた。
* * *
食事が終わった。
片付けをしようとして、晴斗は止まった。恵子がいつも片付けをしていた。恵子の手順があった。食器をここに積んで、こちらに運んで、こうやって洗う。その手順を、晴斗は見ていたが覚えていなかった。覚えていなかったことに、今日初めて気づいた。
夕莉が食器を運んだ。晴斗も続いた。
台所に立って、水を出した。水の音がした。いつもと同じ音だった。水の音は何も変わっていなかった。
夕奈がまた袖を掴んだ。台所で、食器を洗いながら、袖を掴んでいた。洗い物の邪魔だった。でも晴斗は何も言わなかった。
恵子の名前は、この朝の食卓で一度も出なかった。
「恵子さんが」とも、「お母さんが」とも、誰も言わなかった。名前を言えば、それが確定する。確定することを、この朝の食卓の全員が、それぞれの理由で、望んでいなかった。望んだかたちではなかった。




