第67話 信号のズレ
第67話では、家族の“信号”が初めて大きくずれます。
恵子の「少し出てくる」は、
いつもなら数時間で戻る言葉でした。
しかしこの日は戻らず、
夕方が夜になり、夜が深くなっても、
玄関は静かなままでした。
宗一の言葉は途中で止まり、
晴斗は続きを受け取れず、
夕奈は袖を掴んだまま動かない。
喪失がまだ“形”を持たない段階で、
ただ信号だけがずれていく。
そんな夜の始まりです。
# 第七章 第三節 信号のズレ
十二月の二十一日、恵子が「少し出てくる」と言って出かけた。
扉が閉まると、あとはただ静寂が残るだけだった。
玄関の音がして、車のエンジンの音がして、遠ざかった。昼過ぎだった。夕方になれば戻る、という前提で晴斗はクラリネットの練習をしていた。曲の途中で音を外した。もう一度やり直した。夕方になった。
恵子は帰ってこなかった。
* * *
夜の七時を過ぎた頃、宗一の携帯が鳴った。
宗一が画面を見た。一秒だけ見た。それから廊下に出た。ドアを閉めた。
居間に夕奈と二人残った。テレビが点いていた。夕奈はテレビの方を向いていた。晴斗はテレビが映っているものを見ていなかった。
廊下の声は聞こえなかった。宗一が声を抑えていたのか、電話の相手の話を聞いていただけなのか、分からなかった。十分か、十五分か——時計を見なかったので正確には分からなかった。ただ、しばらくの後、ドアが開いた。
宗一が居間に入ってきた。
立っていた。椅子には座らなかった。夕奈がテレビの音量を下げた——何かを察したのか、音が邪魔だと思ったのか、どちらか分からなかった。音が小さくなって、居間が少し静かになった。
「恵子が、事故に」
続きがなかった。
宗一の口が開いていた。続きを言おうとして、言葉が来ていなかった。言葉が来ていないのか、来た言葉を言えないのか、見ている側からは分からなかった。ただ、開いたまま止まっていた。
晴斗は続きを聞こうとして、聞けなかった。
宗一の顔が、続きを受け取れる顔ではなかった。「亡くなった」も「入院した」も「行方が分からない」も——どの続きも、今の宗一から来る言葉ではなかった。来るとしたら、それは別の日の、別の顔をした宗一からだった。
夕奈が、晴斗の袖を掴んだ。
音がなかった。声もなかった。ただ、袖を掴んだ。指の関節が白くなるくらいの力だった。
宗一がまた廊下に出た。今度は出たまま、戻ってこなかった。
* * *
どれくらい時間が経ったのか分からなかった。
夕奈はずっと袖を掴んでいた。テレビの音を誰も上げなかった。音は小さいままで、画面の中で誰かが笑っていた。笑っている音は、小さくなっても笑っている音だった。
晴斗は何かを考えようとして、考えることの手前で止まった。「事故に」という言葉が、その先に行かせなかった。続きが来ないまま、「事故に」という二文字の後に何もなかった。何もない場所を、考えることができなかった。
夕奈が「お兄ちゃん」と言った。
声は静かだった。怖がっている声ではなかった。何かを確かめる声だった。
「うん」と晴斗は言った。
夕奈は何も続けなかった。袖を掴む力は変わらなかった。
* * *
夜が深くなった。
廊下の向こうで宗一の声がした。誰かに電話をかけていた。同じことを何度か繰り返しているようだった。「恵子が」という言葉が、廊下の向こうから一度だけ聞こえた。それだけだった。
夕奈に「もう寝ろ」と言おうとして、言えなかった。言えない理由を言葉にできなかった。
気がついたら居間の灯りが点いたままで、二人でそこにいた。
廊下の向こうで宗一の声がなくなった。書斎のドアが閉まる音がした。
それから、どこかで明かりが消えた。でも一つだけ、消えない明かりがあった。
恵子の部屋だった。
誰もそこへ行かなかった。行けなかったのか、行こうと思わなかったのか、晴斗には分からなかった。ただ、明かりは朝まで点いていた。
第67話を読んでくださり、ありがとうございます。
この節では、恵子の不在が
説明のない喪失として家族に訪れました。
宗一は「事故に」とだけ言い、
その先の言葉を持てませんでした。
晴斗は続きを聞けず、
夕奈は袖を掴むことでしか反応できず、
家族の信号はそれぞれ別の方向を向き始めます。
そして、
恵子の部屋の明かりだけが朝まで消えなかった。
それは誰も触れられないまま残った“空白”であり、
第7章のテーマである
形のない喪失の最初の輪郭です。
次の話では、この“ズレ”がさらに広がり、
家族の中で何が欠けていくのかが
少しずつ見えてきます。
静かに、確かに。




