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鏡淵の調律 ―揃わないまま、君と生きる―  作者: ちとせ鶫
第7章 形のない喪失

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第66話 線を引く・第三回

第66話では、ほのかが三度目の“線を引く”試みに挑みます。

一回目は跳ね返され、

二回目は吸収され、

そして三回目は——

問いそのものが存在しないものとして処理されます。


夕奈の中で「起きない」という言葉は、

可能性の否定ではなく、

世界の構造そのものになっていました。

 踊り場を選んだのは、意図的だった。


 一回目は偶然だった。校舎の廊下で、たまたま二人になった。二回目は瀬戸家の居間だった——晴斗がいない時間に訪ねて、夕奈と向き合った。三回目は、場所を選んだ。屋上への階段の途中にある踊り場。昼休みが終わる少し前。人が通らない時間帯と場所の組み合わせを、ほのかは事前に確かめていた。


 「一回だけちゃんと聞かせてほしい」という言葉が来た。使うつもりだった。使った。


「夕奈ちゃん」


 夕奈が振り向いた。


「少しだけ、いい?」


 夕奈が「うん」と言った。止まった。この「うん」には、一拍と二拍の間くらいの時間があった。以前よりも長い。ほのかはそれに気づいたが、今日は記録のために来たのではなかった。


     * * *


 ほのかは一回目も二回目も、違う方向から入ろうとした。


 一回目は正面からだった。「うちはおかしいと思う」と言った。跳ね返された。言葉が届く前に、夕奈の世界の外側に着地した。


 二回目は斜めから入った。「好きなものは言えてる?」と聞いた。「きらいなものは分かる」と夕奈が言った。そこまでは届いた——届いた瞬間に、制御ユニットが明滅して、夕奈の視線がそちらに行った。吸収された。届いたが返ってこなかった。


 三回目は、別の方向を選んだ。


「もし、お兄ちゃんが鏡淵からいなくなったら、夕奈ちゃんはどうなると思う?」


 踊り場は静かだった。階段の下から誰かの話し声が聞こえたが、踊り場まではこなかった。制御ユニットは明滅しなかった。今日は介入がなかった。


 夕奈が少し止まった。


 考えている、のかもしれなかった。処理している、のかもしれなかった。どちらか、ほのかには見えなかった。


「そんなこと、起きない」


 声は穏やかだった。


 怒っていなかった。否定している声ではなかった。「起きない」という言葉が、夕奈の中で事実として存在している声だった。「あり得ない」ではなかった。「起きない」だった。可能性の話をしているのではなく、現実の話をしていた。現実には起きないことだから、考える必要がなかった。


「起きないじゃなくて——起きたときのことを、聞いてるの」


「起きない」


 二回目の「起きない」は、一回目より静かだった。


 力が込められていなかった。繰り返した、という感触もなかった。同じ言葉をもう一度言ったのではなく、同じ事実をもう一度確認した、という声だった。ほのかが「起きたときのことを聞いている」と言ったことを、夕奈は理解していた。理解した上で「起きない」と言っていた。


 仮定が、処理できなかった。


     * * *


 ほのかは何も言わなかった。


 言える言葉が来なかった。来なかったのではなく——来た言葉の全部が、夕奈に届く形をしていなかった。「お兄ちゃんだけじゃない世界を考えてほしい」も「いなくなったときのために準備してほしい」も「あなたのことが心配だ」も、全部、夕奈の世界の外側に着地する言葉だった。


 夕奈は悪くない。ほのかはそう思った。夕奈は「起きない」という世界に住んでいる。その世界の中では「起きない」が正しかった。ほのかが間違っているわけでもない。ほのかは「起きたとき」という世界から来ていた。その世界の中では、準備が必要だった。二つの世界は噛み合わなかった。


「うん。ごめんね」


 ほのかは言った。謝る必要はなかった。でも他に言える言葉がなかった。


 夕奈が「うん」と言った。踊り場を出て、廊下の方へ行った。


     * * *


 ほのかは踊り場に一人残った。


 階段の手すりに手を置いて、下を見た。踊り場の窓から、校舎の中庭が見えた。十二月の中庭は人がいなかった。


 一回目は跳ね返された。二回目は吸収された。三回目は——届く前に、存在しなかったことにされた。「起きない」という言葉は、ほのかの問いを否定したのではなかった。ほのかの問いの前提を、存在しないものとして処理した。問いが届いた形跡が、何も残らなかった。


 手帳を出した。


 電柱の脇ではないので、少し字が崩れた。それでも書いた。


 「第三回・踊り場。起きない×2。仮定が処理できない。届く前に消えた」


 恵子さんが見ていてくれた、という感触を思い出した。今日の踊り場は、見ていてくれる人間がいない場所だった。意図的にそういう場所を選んだのはほのか自身だったが、それでも少し、遠かった。


 その視線がなくなることを、この時点のほのかは、まだ知らなかった。

第66話を読んでくださり、ありがとうございます。


この節でほのかは、

夕奈に向けた問いが

否定されるのではなく、

前提ごと“存在しないもの”として処理される

という段階に到達しました。


「起きない」という言葉は、

夕奈の世界の“事実”であり、

ほのかの世界の“仮定”とは噛み合いません。


そしてほのかは、

これまで背後にあった“見ていてくれる視線”が

もう届かない場所に来てしまったことを、

まだ知らないまま踊り場に立っています。

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