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鏡淵の調律 ―揃わないまま、君と生きる―  作者: ちとせ鶫
第7章 形のない喪失

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第65話 恵子の未完の言葉

第65話では、恵子が初めて“核心に触れる言葉”を口にします。


「守ることと、閉じ込めることは——」


その続きは、また届きません。

けれど、届かなかった言葉ほど、

家族の中に深く残るものはありません。

 十二月の十四日、夕方だった。


 台所に入ると、恵子が煮物の鍋をかき混ぜていた。換気扇が回っていた。居間のテレビが点いていた。夕方の台所はいつもそういう音の重なりだった。


「晴斗くん、少しいい?」


 恵子が手を止めた。珍しかった。夕食の支度中に恵子が手を止めるのは、珍しかった。


「うん」と晴斗は言って、台所の端に立った。


 恵子が鍋から離れて、晴斗の方を向いた。向いてから、少し止まった。何かを選んでいた。言葉を選んでいるのではなく、何を話すかの手前にある何かを選んでいるように見えた。


「守ることと、閉じ込めることは——」


 換気扇が回っていた。鍋の中で何かが小さく音を立てた。

 廊下を歩く足音が聞こえた。

 夕奈だった。台所の入り口に立って、鍋を見た。「ご飯、まだ?」と言った。


「もうすぐよ」と恵子が言って、笑いながら鍋に戻った。


 夕奈が居間の方へ行った。足音が遠ざかった。

 晴斗は恵子を見た。


 続きを聞こうとして、言葉が来なかった。「続きは」とは言えなかった。続きを聞く言葉が、うまく形にならなかった。黙って見ていると、恵子は鍋をかき混ぜながら目だけを晴斗に向けた。一瞬だけ。それから首を小さく横に振った。


 「いつか話すわ」と唇だけが言った。声にはならなかった。


 恵子の後ろ姿が、鍋に向いた。


     * * *


 居間に戻りながら、晴斗は「守ることと、閉じ込めることは」という言葉の続きを考えた。


 続きは来なかった。


 考えても来なかった、というより、続きを自分で作ることができなかった。恵子の言葉には恵子の続きがある。その続きは恵子だけが持っている。晴斗が作れるものではなかった。


 第三章の深夜のキッチンを思い出した。


 「あなたが、あの子の世界のすべてになってしまう前に——」と恵子が言いかけて止まったあの夜。あの夜も、続きは来なかった。今日も、続きは来なかった。


 二度、同じことが起きた。


 「いつか話すわ」という言葉がある。「いつか」は来る前提で言われた言葉だ。来なかった「いつか」を、恵子はまだ持っている。


 夕奈が居間のソファに座ってテレビを見ていた。晴斗が隣に座ると、夕奈が少し寄った。袖には触れなかった。触れる前に寄った——距離を詰めることと触れることが、夕奈の中でまだ別の行為だった。


 テレビが映っていた。晴斗にはあまり入ってこなかった。


 「守ることと、閉じ込めることは」という言葉が、台所の換気扇の音と一緒に残っていた。続きのない言葉だった。続きが来るとしたら「違う」か「同じだ」か「区別がつかなくなる」のどれかだと、晴斗は思った。


 どれも恵子の言葉ではなかった。


 台所から鍋のいい匂いがしてきた。夕奈が「いい匂い」と言った。一拍か二拍、遅かった。


「うん」と晴斗は言った。


     * * *


 夕食の間、恵子はよく笑っていた。


 料理の話をして、学校の話を少し聞いて、「寒くなったから気をつけて」と言った。いつもの恵子だった。「いつか話すわ」という唇の動きのことを、食卓の誰も知らなかった。晴斗だけが知っていた。


 宗一は少し遅く食卓に来て、少し早く立った。「仕事が残っている」と言った。夕莉が宗一の後ろ姿を一秒だけ見た。それだけだった。


 食後、夕奈が食器を運んだ。恵子が「ありがとう」と言った。夕奈が「うん」と言った。二人が台所に並んだ。


 晴斗は居間から、その後ろ姿を見ていた。


 恵子の背中は、いつもと同じだった。「守ることと、閉じ込めることは——」という言葉を飲み込んだ背中と、食後の食器を受け取る背中が、同じ背中だった。どちらが本物かということは、多分なかった。両方が本物だった。


 「いつか」は来ると思った。


 その確信を持てたのは、たぶんその夜が最後だった。

第65話を読んでくださり、ありがとうございます。


この節では、恵子の言葉がまた途中で止まりました。

「あなたが、あの子の世界のすべてになってしまう前に——」


そして今日の、

「守ることと、閉じ込めることは——」


二度続けて途切れた言葉は、

恵子が“まだ言えないもの”を抱えている証拠です。


晴斗だけがその“未完”を受け取り、

夕奈は拍のズレを抱えたまま寄り添い、

家族の中に“形のない喪失”が静かに広がり始めました。


第7章では、

言葉にならない喪失が、

言葉にならないまま進行していく

そんな章になります。


静かに、確かに。

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