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鏡淵の調律 ―揃わないまま、君と生きる―  作者: ちとせ鶫
第1章:あたたかな不協和音

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第7話 お願い

子どもの頃の「好き」は、とても曖昧だ。


手を離したくないとか、隣を歩きたいとか、名前を呼ばれるだけで少し嬉しいとか。そういう輪郭のぼやけた感情を、まだ自分でもうまく言葉にできない。


だからこそ、ときどき怖い。


無邪気なはずの言葉が、大人の冗談よりずっと深く胸に残ることがある。

笑って流せるはずの一言が、夕焼けみたいにじんわりと沈殿して、あとになってから熱を持ち始める。


今回の話は、そんな“まだ名前のない感情”の話です。


やさしくて、少しだけ危うい、帰り道。

 薄柿(うすがき)の夕焼けは、少しだけ甘かった。


 校門を出て、四人は並んで歩く。

 ランドセルが揺れるたびに、金具が小さく鳴る。


「ほら晴くん、ちゃんと前見て歩きや」

「見てるって」

「絶対見てへんやん。さっきも段差見逃してたし」

「見てたわ」

「ほならなんでつまずきかけてん」

「……それは」


 言い返せずに黙ると、ほのかが勝ち誇ったように笑う。

 その横で、夕莉は少しだけ距離を取って歩いていた。周囲の様子を確かめるように、静かに視線を動かしている。


 ――そして。

 夕奈だけが、晴斗のすぐ隣にいた。袖を掴んだまま。歩くたびに布が引かれる。


 (……まだ掴んでるのか)


 言おうと思えば言える。「離せよ」と、一言で済む。

 でも、なぜかその言葉が出てこない。


「ねえ、お兄ちゃん」

 夕奈が見上げてくる。

「なに」

「今日、いっしょに帰れてよかった」


 ただそれだけの言葉。なのに、胸の奥が少しだけざわつく。

「……毎日帰るだろ、普通」

「うん。でもね」

 夕奈は少しだけ間を置く。

「"いっしょに"がいいの」


 言い切る声は、小さくて。でも、妙にまっすぐだった。

 それに返す言葉が見つからないまま歩いていると、後ろから声がした。


「晴斗くん」

 振り返ると、恵子が少し離れた場所に立っていた。さっき別れたはずなのに、いつの間にかそこにいる。

「……あれ、まだいたの?」

「少し用があってね。ちょうど同じ方向だったから」


 自然な言い方だった。でも、用事の中身は言わない。晴斗はそれを特に気にしなかった。

 恵子はゆっくりと四人の横に並ぶ。視線が、自然に全員を順番になぞっていく。確認するように。配置を、覚えるように。


「この子たち、どう? 慣れそう?」

「どうって……まだ今日だし」

「そうね」


 穏やかに笑う。

「晴斗くん、ありがとうね。急にお願いして」

「別に、大したことしてないけど」

「それでも」

 一度、歩みを緩める。

「この子をお願いね」


 静かな一言だった。

 頼み事としては普通のはずなのに、その重さだけが違う。断れない、というより——断るという選択肢が、最初からそこにない感じがした。


「……わかった」


 短く答える。それ以上、言葉は出てこない。

 夕奈の指が、少しだけ力を込める。


「離したら、どっかいきそうで」

 ぽつりと呟く。自分の手元を見たまま。誰に言うでもなく。

「やだから」


 その言い方は、子どものそれだった。拙くて、説明も足りなくて。

 でも——その感覚だけは、妙に具体的だった。


 恵子は、それを聞いて。

 ふっと、笑った。


「そう」

 やわらかい声。

 けれど、その奥にあるものは、やさしさだけじゃなかった気がした。

 

 そのとき、ほのかがぱっと顔を上げる。

「あ、恵子さん。この前の話、まだ考えてるんですけど」

「何の話?」

「ほら、うちが晴くんの——」


 ほのかが何か言いかけると、恵子が少しだけ楽しそうな顔になる。

「あら、そういえば」

 先に口を開く。

「ほのかちゃんが晴斗くんのお嫁さんになってくれたら、私も安心なのにな」

「ちょっ——! なんで先に言うんですか!」


 ほのかの顔が一瞬で赤くなる。

「だって、そう思ってるもの」

「思ってるって何ですか! まだ子どもやし!」

「未来の話よ?」


 楽しそうに笑う恵子。からかわれていると分かる。

 分かるのに——その言葉だけが、少しだけ引っかかった。


 晴斗は何も言わない。夕莉も、静かに見ているだけ。

 そして夕奈は——

 ゆっくりと、顔を上げた。

 笑ってはいない。ただ、じっと、ほのかと晴斗を見ている。


 その視線が、何を見ているのかは分からない。

 ただ、何かを測っているような——子どもがするには、少しだけ静かすぎる目だった。


 やがて、視線が前に戻る。

「ねえ、お兄ちゃん」

 明るい声。

「帰ろ?」

「ああ」


 何も気づかないまま、頷く。

 四人はまた歩き出す。夕焼けの中を、同じ速さで、同じ方向へ。


 ただ一人、恵子だけがその場に残った。

 遠ざかっていく背中を見ながら、小さく息をつく。


「……間に合うかしらね」


 誰に向けたものでもない言葉が、風に溶けて消えていく。

 そのとき、夕奈が一度だけ振り返った。

 ほんの一瞬。恵子と視線が重なる。


 すぐに、前を向く。

 その手は、まだ離れていない。

今回は、物語全体で見るとかなり静かな回です。


大きな異変も、露骨な違和感もありません。けれど、そのぶん「関係性の温度」を丁寧に描いています。


特に意識しているのは、“子どもらしさ”と“子どもらしくなさ”が同じ場面に同居していること。


ほのかは年相応に騒がしく、恥ずかしがって、勢いで言葉を口にします。

一方で夕奈は、晴斗の袖を掴んだまま離さない。その行動自体は幼いのに、視線や間の取り方だけが妙に静かで、大人びている。


このアンバランスさが、夕奈という存在の不穏さでもあり、同時に切なさでもあります。


そして今回、恵子の「お願いね」という言葉も重要です。


一見すると保護者として自然な台詞ですが、実際にはかなり重い。

“頼み事”というより、“配置”に近いニュアンスが混ざっています。


誰をどこに置くのか。

誰と誰を繋ぐのか。


それを決めている人間がいる――そんな空気を、会話の奥に滲ませています。


ラストの「……間に合うかしらね」は、この章全体の静かな火種です。


まだ誰も、その意味を知りません。

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