第7話:お願い
「お願い」という言葉は、やわらかい。
やわらかいからこそ、重さに気づきにくい。
引き受けたあとで、じわじわと効いてくる。
この話は、たったひとつの「お願い」が、
どこまで届いてしまうのか――
その最初の、ほんの小さな揺れの記録です。
薄柿の夕焼けは、少しだけ甘かった。
校門を出て、四人は並んで歩く。
ランドセルが揺れるたびに、金具が小さく鳴る。
「ほら晴くん、ちゃんと前見て歩きや」
「見てるって」
「絶対見てへんやん。さっきも段差見逃してたし」
「見てたわ」
「ほならなんでつまずきかけてん」
「……それは」
言い返せずに黙ると、ほのかが勝ち誇ったように笑う。
その横で、夕莉は少しだけ距離を取って歩いていた。周囲の様子を確かめるように、静かに視線を動かしている。
――そして。
夕奈だけが、晴斗のすぐ隣にいた。袖を掴んだまま。歩くたびに布が引かれる。
(……まだ掴んでるのか)
言おうと思えば言える。「離せよ」と、一言で済む。
でも、なぜかその言葉が出てこない。
「ねえ、お兄ちゃん」
夕奈が見上げてくる。
「なに」
「今日、いっしょに帰れてよかった」
ただそれだけの言葉。なのに、胸の奥が少しだけざわつく。
「……毎日帰るだろ、普通」
「うん。でもね」
夕奈は少しだけ間を置く。
「"いっしょに"がいいの」
言い切る声は、小さくて。でも、妙にまっすぐだった。
それに返す言葉が見つからないまま歩いていると、後ろから声がした。
「晴斗くん」
振り返ると、恵子が少し離れた場所に立っていた。さっき別れたはずなのに、いつの間にかそこにいる。
「……あれ、まだいたの?」
「少し用があってね。ちょうど同じ方向だったから」
自然な言い方だった。でも、用事の中身は言わない。晴斗はそれを特に気にしなかった。
恵子はゆっくりと四人の横に並ぶ。視線が、自然に全員を順番になぞっていく。確認するように。配置を、覚えるように。
「この子たち、どう? 慣れそう?」
「どうって……まだ今日だし」
「そうね」
穏やかに笑う。
「晴斗くん、ありがとうね。急にお願いして」
「別に、大したことしてないけど」
「それでも」
一度、歩みを緩める。
「この子をお願いね」
静かな一言だった。
頼み事としては普通のはずなのに、その重さだけが違う。断れない、というより——断るという選択肢が、最初からそこにない感じがした。
「……わかった」
短く答える。それ以上、言葉は出てこない。
夕奈の指が、少しだけ力を込める。
「離したら、どっかいきそうで」
ぽつりと呟く。自分の手元を見たまま。誰に言うでもなく。
「やだから」
その言い方は、子どものそれだった。拙くて、説明も足りなくて。
でも——その感覚だけは、妙に具体的だった。
恵子は、それを聞いて。
ふっと、笑った。
「そう」
やわらかい声。
けれど、その奥にあるものは、やさしさだけじゃなかった気がした。
そのとき、ほのかがぱっと顔を上げる。
「あ、恵子さん。この前の話、まだ考えてるんですけど」
「何の話?」
「ほら、うちが晴くんの——」
ほのかが何か言いかけると、恵子が少しだけ楽しそうな顔になる。
「あら、そういえば」
先に口を開く。
「ほのかちゃんが晴斗くんのお嫁さんになってくれたら、私も安心なのにな」
「ちょっ——! なんで先に言うんですか!」
ほのかの顔が一瞬で赤くなる。
「だって、そう思ってるもの」
「思ってるって何ですか! まだ子どもやし!」
「未来の話よ?」
楽しそうに笑う恵子。からかわれていると分かる。
分かるのに——その言葉だけが、少しだけ引っかかった。
晴斗は何も言わない。夕莉も、静かに見ているだけ。
そして夕奈は——
ゆっくりと、顔を上げた。
笑ってはいない。ただ、じっと、ほのかと晴斗を見ている。
その視線が、何を見ているのかは分からない。
ただ、何かを測っているような——子どもがするには、少しだけ静かすぎる目だった。
やがて、視線が前に戻る。
「ねえ、お兄ちゃん」
明るい声。
「帰ろ?」
「ああ」
何も気づかないまま、頷く。
四人はまた歩き出す。夕焼けの中を、同じ速さで、同じ方向へ。
ただ一人、恵子だけがその場に残った。
遠ざかっていく背中を見ながら、小さく息をつく。
「……間に合うかしらね」
誰に向けたものでもない言葉が、風に溶けて消えていく。
そのとき、夕奈が一度だけ振り返った。
ほんの一瞬。恵子と視線が重なる。
すぐに、前を向く。
その手は、まだ離れていない。
並んで歩くだけの帰り道。
他愛のない会話と、いつも通りの夕焼け。
けれど、その中に紛れた言葉は、
少しずつ輪郭を持ちはじめています。
「離したくない」という感覚。
「お願い」という約束。
そして、冗談のように投げられた未来の話。
どれも軽く受け流せるはずのものなのに、
どこかで引っかかって、消えない。
たぶんそれは――
もう、ただの帰り道ではないから。
次は、その違和感が、
もう少しだけ形を持ちます。




