第6話:隣人の音
ここからは、少しずつ日常の中に“違和感”が混ざっていきます。
まだ優しい音のままですが、その中にあるズレを感じてもらえたら嬉しいです。
その日、世界はまだ、「琥珀」を溶かし込んだ陽光のような、やさしい音でできていた。
午後の教室。チャイムが鳴って、子どもたちの声が一斉にほどけていく。
ランドセルの金具が鳴る音。机を引く音。廊下へ飛び出していく足音。それらが混ざって、少しだけ雑な、それでもどこか安心できるリズムを作っていた。
瀬戸晴斗は、その音の中にいた。
窓際の席。ランドセルに教科書を詰めながら、ぼんやりと外を見ている。
グラウンドでは低学年の子たちがまだ遊んでいた。
笑い声が風に乗って、教室の中まで届く。
(……帰るか)
誰に言うでもなく、心の中でそう決めたときだった。
「晴斗くん」
やわらかい声がして、振り返る。
教室の入口に立っていたのは、支倉恵子だった。
保護者として学校に来ることは珍しくない。でも今日は、何か用事があって来たというより、最初からここに来るつもりだったような立ち方をしていた。
「まだ残ってたのね」
「うん」
「ちょうどよかった。紹介したい子がいるの」
そう言って、恵子は少し身体を横にずらした。
その後ろから、二人の女の子が顔を出す。
同じ顔。
同じ背丈。
でも、空気が違う。
一人は、恵子の影に半分隠れるようにしている。
もう一人は、じっとこちらを見ていた。
視線に迷いがない。品定めしているわけじゃなくて、ただ、確かめているような目だった。
「夕奈と、夕莉。今度一緒に住むことになる子たちよ」
晴斗は二人を見る。
そのとき。
前に出ていた方の子が、ためらいもなく近づいてきて——
きゅ、と。
制服の袖を掴んだ。
「……お兄ちゃん?」
その一言で、世界の音が一瞬だけ遠くなる。
知らないはずなのに。初めて会ったはずなのに。
その呼び方だけが、なぜか自然に胸に落ちた。
「……えっと」
どう返していいか分からない。けれど、手は離さない。
小さな指が、しっかりと布を掴んでいる。
「夕奈」
後ろにいたもう一人——夕莉が、小さな声で言う。
「知らない人に、いきなりそういうのはよくない」
言い方は真面目だった。でも、声の奥に「止められるとは思っていない」という諦めが混じっているような気がした。
「ごめんなさい」
夕奈は謝る。でも、手は離さない。むしろ、少しだけ力が強くなる。
(……なんだよ、これ)
振り払おうと思えばできる。
でも、それをしてはいけない気がした。理由は分からない。
「晴斗くん、無理しなくていいのよ」
恵子が言う。
「でも、少しだけ一緒にいてあげてくれる? 今日は私、お迎えが遅くなるから」
断れない重さがある。それでも、強制されている感じはしない。そういう言い方ができる人だった。
「……いいよ」
気づけば、そう答えていた。
夕奈の指が、ほんの少しだけ緩む。安心したみたいに。
それが、なぜか嬉しくて——
(なんでだよ)
自分でもよく分からない感情が、胸の奥に残る。
「ありがとう」
恵子は、やわらかく笑った。
その笑顔は、どこか少しだけ遠かった。まるで、このあと何が起こるかを、知っているみたいに。
――そのとき。
「晴くーーーん!!」
廊下から大きな声が飛び込んできた。
次の瞬間、教室のドアが勢いよく開く。
「また一人で帰ろうとしてたやろ! ほんまにもう、うちがおらんと——」
佐倉ほのかだった。ランドセルを背負ったまま、ずかずかと中に入ってくる。
言いかけて、止まる。
視線が、晴斗の袖に落ちた。
一拍置いて。
それから、ぱっと顔が明るくなる。
「なにそれ、めっちゃかわいいやん!」
すぐにしゃがみこんで、二人と目線を合わせる。
「はじめましてやな! うちは佐倉ほのか。晴くんの幼馴染。ずっとそばにおるから、困ったことあったら何でも言いや!」
にこにこと笑う。その笑顔に、作ったところが一切ない。
夕莉は少しだけ警戒している。でも夕奈は——まだ、離さない。
「……夕奈です」
「夕莉です」
「ええ名前やなあ」
ほのかは嬉しそうに頷いて、それから晴斗を見る。
「晴くん」
「なに」
何か言いかけて、止まる。
口を押さえる。
「……あれ?」
きょとんとした顔。
「うち、今なんて言おうとしたっけ」
首をかしげて、少し笑う。
「ごめん、なんでもないわ。変なこと言いかけた」
すぐにいつもの調子に戻る。
「ほなまあ、みんなで一緒に帰ろ! 晴くん一人やと絶対迷子になるし」
「しないっての」
「する!」
即答だった。
教室に、小さな笑いが生まれる。
夕奈も、くすっと笑った。
その笑顔は、まだ、ただの子どものものだった。あたたかくて、やわらかくて、何も壊れていない。
――だから。
誰も気づかなかった。
その小さな手が。晴斗の袖を掴んだまま。
ほんの一瞬だけ、「離されたら、もう戻れない」と知っているみたいに、かすかに震えていたことに。
第1章が始まりました。
ここからは「日常」と「違和感」が少しずつ重なっていきます。
まだ何も壊れていないはずなのに、どこかおかしい。
そんな感覚を、ゆっくり育てていけたらと思っています。
次回もよろしくお願いします。




