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鏡淵の調律 ―揃わないまま、君と生きる―  作者: ちとせ鶫
序章:緋色の残響 ―リボンと消失―

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第5話 リボンの行方 ―消失―

“当たり前”だったものが、当たり前のまま消えるとき。

人は、それをすぐには理解できません。

 西棟校舎、西二階段。

 三階と四階のあいだにある踊り場は、他の場所と違って、いつも西日が深く差し込む。


 壁一面に据えられた大きな姿見。

 斜めに差し込んだ光が、その鏡面を緋色に染め上げていた。


 ――少しだけ、世界が静かすぎる。


 晴斗はその違和感を言葉にしないまま、階段を上っていた。


「お兄ちゃん、待ってよ」


 一拍遅れて、声が届く。

 振り返るよりも先に、腕に重みがかかる。夕奈が、いつものように当然の顔で絡みついてきた。


「……またそんなことして」


「だって、こうしないと逃げるでしょ?」

 笑う。完璧な笑顔。ただその立ち上がりだけが、ほんのわずかに遅れている。


 晴斗は何も言わず、視線を前に戻す。

 踊り場の鏡が、二人の姿を映している。

 正確に。正確すぎるほどに。


「ねえ、お兄ちゃん」

 夕奈が、少しだけ声を落とす。

「今日さ——」

 言葉が続く前に。

 鏡の中の夕奈が、先に口を開いた。

 ほんのコンマ数秒。だが、確実に。

「——ずっと、一緒にいられるよね?」


 晴斗の足が止まる。

「……え?」


 現実の夕奈が、同じ言葉をなぞる。

「ずっと、一緒にいられるよね?」


 同じ音。同じ抑揚。

 なのに——どこかで「結果を知っている問い」だった。

  

 晴斗は鏡を見る。

 

 鏡の中の夕奈が、こちらではなく——晴斗の肩越し、その「背後」を見ている。

 そこには何もないはずだった。

 

 そこには輪郭を持たない空白。

 存在しないはずの「深さ」が、鏡の奥に口を開けていた。


「……夕奈、こっちを見ろ」

 強くはない。だが、はっきりと。


 夕奈は一拍遅れて視線を戻す。

「……うん」

 その声が、わずかに遠かった。


 カチ、と音がした。

 何かが噛み合った音。


「やめろ——!」

 晴斗が叫ぶ。


 その瞬間、鏡の中の世界が、先に崩れた。

 夕奈の輪郭が、音もなくほどける。指先から。糸が解けるように。


「……あ」

 理解が追いつかない。

 晴斗は反射的に腕を掴む。

 そこにあったはずの温度が——遅れて、消える。


「夕奈——!」

 叫ぶ。手を伸ばす。掴む。掴めない。


「待て……! 置いていくな……!」

 何度伸ばしても、「もうない」。

 夕奈の身体が、光の粒子のように空気に溶けていく。


 最後に残ったのは、緋色のリボンだけだった。

 ふわりと浮き——床へと落ちる。


 カタン。

 やけに大きな音だった。


 沈黙。

 晴斗は、動けない。

 呼吸の仕方を忘れたように、その場に立ち尽くす。


 リボンを見る。

 それが何なのか、分からない。


 なのに——それが「とても大切なものだった」ことだけが分かる。

 手が、震えながら伸びる。


 拾う。

 握りしめる。


 (……誰の、これ)


 その問いが浮かんだ瞬間、晴斗の喉から声にならない音が漏れた。


 名前を呼ぼうとする。

 呼べない。


 さっきまで叫んでいたはずの名前が——霧の向こうに遠ざかっていく。

「……ゆ……」

 音にならない。


「……誰だ」

 その瞬間、膝が崩れた。

 床に手をつく。リボンを握りしめたまま、嗚咽が込み上げる。

 理由が分からない。

 なのに——止められない。


「……騒がしいと思うたら」

 階段の上から、静かな声が降りてきた。

 如月澪だった。

 緋色の袴が、夕焼けと同じ色に溶け込んでいる。


 彼女は床に落ちたリボンと、何もない空間を一瞥する。そして、晴斗を見る。

 その視線には、感情がない。驚きもない。まるで——こうなることを、最初から知っていたかのように。


「……消えたんやない」

 静かに言う。

「最初から、ここに在り続けられるもんやなかった。ただ、それだけや」


「……何、言って——」

 言い終わる前に、身体が動いた。澪の胸ぐらを掴む。

「ふざけんな……! 今、目の前で……!」

 震える手。だが澪は微動だにしない。


「名前、言うてみ」

 ただ、それだけを言う。


 沈黙。

 喉が動かない。さっきまで呼んでいたはずの名前が——


「……ゆ、な……?」

 ひどく遠い音だった。

「……あ」


 世界が、歪む。


 理解が、遅れてやってくる。

 何かが決定的に欠けている。なのに、その輪郭が思い出せない。


 リボンだけが、手の中にある。

 それが何なのか分からない。

 なのに——これだけは、離せない。


「……ああ……」

 嗚咽が、止まらない。


 澪はそれを見て、小さく息を吐く。

「遅いな」

 ぽつりと。

「全部、遅い」


 その言葉を最後に、音が途切れた。

 意識が、落ちていく。


 その直前。

 階段の下から、足音が聞こえた。コツ、コツ、と規則正しい音。


 瀬戸夕莉が、そこに立っていた。

 彼女は倒れ込む晴斗を見て、視線をゆっくりと周囲に巡らせる。鏡。床。何もない空間。そして、リボン。


「……一人分、欠けてるのに」

 ぽつりと呟く。

 一歩、踏み出す。

「欠けてない」


 しゃがみ込み、リボンに触れようとして——指先が、止まる。

 触れない。

 触れてしまえば、何かが確定してしまう気がして。


「……まだ、ある」

 静かにつぶやく。


 立ち上がり、鏡を見る。

 そこには、自分と、泣き崩れる晴斗しか映っていない。

 

 ――はずなのに。


 一瞬だけ。そこに、もう一つの影が重なった気がした。

 すぐに消える。


「……そういうことか」

 夕莉は静かに言う。


 まだ結論ではない。だが——確信に、近い。

 その横で、晴斗の嗚咽だけが遅れて空間に響き続けていた。


 緋色の残響だけが、世界に取り残される。

ここから物語は、一段深い層へ入ります。

「消えた」のではなく、

「最初から存在できなかった」としたら――

その矛盾を、誰が観測できるのか。

次話は、観測者の側から。


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