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鏡淵の調律 ―揃わないまま、君と生きる―  作者: ちとせ鶫
第6章:崩壊の臨界(前半)

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第61話 届かない問い

晴斗が初めて“問い”を父に向けます。

しかしその問いは届かず、言葉は書斎の内側に残ったまま。


昼休みの視線、練習室の一拍、

それぞれの場所で“気づく人”と“気づかない人”が分かれ始めます。


静かな緊張が少しずつ積み上がる章です。

 書斎のドアをノックしたのは、晴斗自身も少し驚いた。


 意識して決めたわけではなかった。

 廊下を歩いていて、書斎の前を通りかかって、ドアの前で足が止まった。

 その足でそのまま、扉をノックしていた。


「入っていいですか」


 少しの間があった。「ああ」という声が中から来た。


 書斎に入ると、宗一は机に向かっていた。

 書類が積まれていた。表紙のいくつかに英字が混じっていた。

 見ようとしたわけではなかった。でも目に入った。

 そのうちの一枚の端に、見覚えのある文字列があった。「Phase-2」だった。

 夕奈が書斎に食事を持って行った夜、廊下の向こうで朔也の声と一緒に聞こえてきた言葉だ。


「それ、何?」と晴斗は言った。


 宗一が顔を上げた。晴斗が書類の方を見ていると気づいて、書類の上に別の書類を重ねた。


「仕事の話だ」


 それだけの回答。


 言い訳でも説明でもなく、ただそれだけだった。宗一の目はもう書類の方に戻っていた。晴斗が出ていくことを、すでに前提にしていた。


 晴斗は書斎を出た。廊下に立って、ドアを閉めた。


 返せる言葉が来なかった。聞くべき言葉が来なかった。「どういう仕事なのか」「Phase-2とは何か」「朔也は何をしようとしているのか」——言葉は全部、ドアの内側に残った。


     * * *


 昼休み、食堂の端のテーブルで晴斗は夕奈と向かい合っていた。


 いつもの場所だった。この席がいつから「いつもの場所」になったのか、晴斗には正確には分からなかった。気がつけばそうなっていた。夕奈が来て、晴斗が来て、二人で向かい合って食べる。それが昼休みだった。


 隣のテーブルから、視線を感じた。


 何人かが、こちらを見ていた。見ているというより、確認していた——今日もあの二人は一緒だ、という確認の目だった。晴斗はそれに気づいて、気づかなかったふりをした。夕奈は気づいていなかった。夕奈の目は、弁当の卵焼きの上にあった。


「おかず、これだけ?」と夕奈が言った。晴斗の弁当を覗いていた。

「今日は少ないかな」

「......あげる」と夕奈が言って、自分の弁当から卵焼きを一切れ、箸で移した。

「いいよ」

「もうあげたもん」


 晴斗は食べた。甘かった。


 隣のテーブルからまた視線が来た。晴斗は気にしないことにした。夕奈は気にしていなかった。卵焼きがなくなった弁当を、静かに食べていた。


     * * *


 放課後、練習室にほのかが来た。


 夕奈と三人になった。ほのかがオーボエを出しながら「今日、合奏ある?」と聞いた。「来週」と晴斗が返した。「そっか」とほのかが言って、リードを確認し始めた。


 玲良が遅れて入ってきた。「お疲れ様ですっ」と言って、アルトサックスのケースを置いて、ほのかに「先輩、今日はリードの調整ですか?」と話しかけた。ほのかが「そやよ」と言った。大阪弁だった。玲良が少し笑って「うちもいつかちゃんと調整できるようになりたいです」と言った。


 練習が始まって、スケールが一周したあたりで、玲良が晴斗の方を向いた。


「あの、晴斗さ——」


 ひと間言い淀み、続きを言った。


「——先輩、この指番号で合ってますか」と続けた。


 楽譜を差し出してきた。晴斗は受け取って確認した。「三小節目だけ変えろ、あとは合ってる」と言った。玲良が「ありがとうございます」と言った。


 それだけだった。


 晴斗には引っかからなかった。名前が途中まで出かかったとしても、言い直しはよくあることだ。先輩の下の名前を一度聞いて、言いかけることはある。そういうことだった。


 ほのかは、楽器を口から離していた。


 「晴斗さ」という途切れ方だった。言い直した。でもその一拍が、少し長かった。確認するための一拍だった。訂正するための一拍ではなかった。


 ほのかはリードをまた口に当てて、スケールに戻った。何も言わなかった。


 練習が終わって帰り道、ほのかは手帳を出した。移動しながら書くのは字が崩れるので、電柱の脇で一度止まった。


 「玲良・下の名前・なぜ」と書いた。


 それだけ書いて、手帳を閉じた。

 夜風が少し冷たかった。十一月の最初の週だった。

第61話を読んでくださり、ありがとうございます。


この節では、晴斗・夕奈・ほのかの三つの視点が

それぞれ“届かないもの”を抱え始めました。


晴斗の問いは宗一に届かず、

夕奈の行動は周囲の視線を集め、

ほのかは言葉にならない違和感を手帳に記録しました。


次の話では、この“届かなさ”がさらに形を持ちます。

静かに、確かに。

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