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鏡淵の調律 ―揃わないまま、君と生きる―  作者: ちとせ鶫
第6章:崩壊の臨界(前半)

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第60話 鏡の加速

第60話では、夕莉の記録が“加速”します。

反射面が広がり、数字が増え、

夕奈の動作が“先に映る”現象が日常に入り込み始めます。


まだ誰も声に出していませんが、

夕莉だけが確かに“変化の速度”を感じています。


静かに読んでいただければ嬉しいです。

 最初の記録から、三週間が経った。


 夕莉はノートの表紙に日付を書いた。

 九月五日から始まって、十月の第三週に入っていた。

 ページは三十一枚になっていた。

 最初の一週間は一日一行だった。

 今は、一日に複数行ある日がある。


 記録の内容が変わったわけではない。

 日付・時刻・場所・現象・数値。

 それだけ。

 感情の言葉はまだ一行もない。

 ただ、ページが増えた。


     * * *


 十月の第一週の終わりに、「2拍」が出た。


 洗面所の鏡の前で夕奈が止まっていた——いつもの光景だった。

 夕莉は廊下から見ていた。

 鏡の中の夕奈が首を動かした。

 次の瞬間、現実の夕奈が同じ動作をした。

 一拍の遅れではなかった。二拍の遅れだった。


 夕莉はノートに書いた。「07:18:洗面所・鏡・先行動作・2拍」。


 数字が変わった、ということは、何かが変わったということ。


     * * *


 そこから一週間で、場所が広がった。


 廊下の姿見。

 学校のトイレの鏡。

 行き帰りに通る商店街のショーウィンドウ——ガラスが磨かれていて、

 通り過ぎるとき自分の輪郭が映る程度には反射する。

 そこでも同じことが起きた。


 夕莉は夕奈の三歩後ろを歩いていた。

 夕奈がショーウィンドウの前を通ったとき、

 ガラスの中の夕奈が先に顔を上げた。

 現実の夕奈は、まだ下を向いていた。


 「10:32:学校・トイレ鏡・先行動作・2拍」。

 「16:05:商店街・ショーウィンドウ・先行動作・2拍」。


 ページが増えた。


     * * *


 夕莉は一晩かけて、記録を読み返した。


 最初の記録は「洗面所の鏡・1拍」だった。

 今は「あらゆる反射面・2拍」になっている。

 場所が増えた。数字が増えた。

 これは安定しているシステムの振る舞いではない、と夕莉は考えた。


 仮説を立てた。


 鏡は現実を映している。

 それが前提だ。

 でも今、鏡が映しているのは現実の夕奈ではなく、

 「次に夕奈がすること」になっている。

 夕奈の存在が何かと深く同調した結果、

 鏡の側が先取りして表示するようになっている——

 そう考えると、記録の数字と一致する。


 「次を先取りする」ということは、

 現在の処理が追いついていないということだ。


 追いついていないシステムは、どこかで限界に達する。


 夕莉はノートのその行の下に、一本の横線を引いた。

 横線より上が記録で、横線より下に何かを書くとしたら、

 それは記録ではなく別の何かになる。

 夕莉は横線の下には何も書かなかった。


     * * *


 翌朝、夕奈が洗面所から出てきた。


「夕莉」と夕奈が言った。

「うん」と夕莉が返した。

「今日、お弁当、晴斗と一緒に食べる」

「そう」


 夕奈が行ってしまった。夕莉は廊下に少しだけ立っていた。


 「お弁当、晴斗と」という言い方だった。

 「食べていい?」でも「食べようと思う」でもなく、

 ただそうなる、という形だった。選択の語彙が、少し変わっていた。

 変わったというより、削れていた。


 夕莉はノートを出した。


 書こうとして、止まった。


 「夕奈・弁当・晴斗と・選択語彙の変容」と書くことはできた。

 書けば記録になる。

 でもこれを記録にしてしまうと、

 それは「観測した」ということになる。

 観測するということは、それが事実だと確認したということ。


 確認したくなかった、という言葉が来た。


 来た、と気づいて、夕莉はノートを閉じた。

 感情の言葉は書かない。書こうとしなかった。

 でも、来た。来てしまった。

 名前のある感情が、湧き出て来た。


 夕莉はノートをカバンに入れた。


 数字は嘘をつかない。

 それだけが事実。

 それだけ、と夕莉は思った。

 もう一度思った。

 そう、たったそれだけ。

 それだけ、と夕莉は思った。

 学校へ向かいながら、もう一度思った。

 そう、それだけ。

第60話を読んでくださり、ありがとうございます。


この節では、夕莉の観測が「1拍」から「2拍」へと変わり、

反射面が家の鏡から街のガラスへと広がりました。


そして夕莉は初めて、

“記録に書けない感情”を自覚します。


次の話では、この加速がさらに進み、

夕奈の“選択”そのものに変化が現れます。

静かに、確かに。

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