第59話 宗一の限界
第59話では、瀬戸家の空気が静かに変わり始めます。
書斎の灯り、宗一の沈黙、朔也の穏やかな声。
どれも大きな出来事ではありませんが、
“限界”という言葉が少しずつ形を持ち始める章です。
静かな気持ちで読んでいただければ嬉しいです。
書斎の電気が、夜になっても消えなくなった。
十月に入ってから、そうなった。
夕食の時間になっても宗一は出てこない。
恵子が「後で食べるって」と言いながら膳を下げる。
翌朝見ると、食器の場所は変わっていなかった。
ある夜、夕奈が書斎に夕食を持っていくことになった。
晴斗はその後ろを歩いていた。
どうしてそうしたのかは分からない。
ただ、夕奈が一人で行くのを見ていられなかった。
書斎のドアの前で、夕奈が止まった。
ドアを開けようとして、手が一瞬だけ止まった。
それだけだの他愛もない動作。
一瞬だけ。
そのまま開けてトレーを置いて出てきた。
「置いてきた」と夕奈が言った。「そうか」と晴斗が言った。
廊下を戻る途中、書斎のドアの内側から声が聞こえた。
朔也の声だった。
* * *
「先生、これ以上引き延ばすと、上から直接介入されます」
穏やかな声だった。
「先生が守ろうとしているものが、先生の判断のせいで壊れることになる」
静かだった。
語尾が上がらなかった。
怒りも焦りも含まれていなかった。
ただ、事実を説明するような声だった。
晴斗は廊下で立ち止まった。
夕奈がその袖を引いた。
晴斗は動かなかった。
宗一の返答は聞こえなかった。
声量の問題ではないと思った。
返答が、なかったのかもしれない。
しばらくして、書類をめくる音だけが聞こえた。
夕奈がもう一度袖を引いた。
今度は晴斗も動いた。
廊下を戻りながら、晴斗は何も言わなかった。
夕奈も何も言わなかった。
居間に入って、二人でそれぞれの場所に座った。
テレビは点いていなかった。
* * *
翌朝、宗一が食卓に来た。
いつもより少し遅かった。
「おはよう」と言った声は普通だった。
箸を取って、味噌汁の椀を持ち上げた。
一口飲んで、椀をテーブルに置いた。
それだけだった。
食事が進まなかった。
箸が止まっていた。
止まっていることに、宗一自身が気づいていないようだった。
恵子が「今日、早いの?」と聞いた。
宗一が「ああ」と言った。
それから、「少し遅くなるかもしれない」と言い直した。
恵子は何も聞かなかった。
夕奈は卵焼きを切ろうとして、うまく切れなくて、
少し大きい形のまま口に入れた。夕莉はお茶を飲んでいた。
晴斗は宗一を見ていた。
昨日と、何かが違った。
昨日の宗一はまだ「考えている人」の目をしていた。
今朝の宗一は違った。
考えることが終わった、という目ではなかった。
考えることを手放した、という目だった。
その違いを、晴斗はうまく言葉にできなかった。
ただ、「父が何かに負けた」という感触だけが、朝食の間ずっとあった。
* * *
その日の放課後、晴斗は部室で一人だった。
クラリネットを出して、吹かなかった。
ケースの上に置いたまま、椅子に座っていた。
朔也の声のことを考えていた。怒鳴らなかった。
脅しのような言葉を、穏やかに言っていた。
それが晴斗にはどういうわけか、怒鳴られるより怖かった。
怒鳴る人間は、怒っている。
穏やかに追い詰める人間は、怒っていない。
感情がない場所から来る言葉は、壁がなかった。
「守ろうとしているものが壊れる」という言葉が残っていた。
何を守ろうとしていたのか、宗一は晴斗に言ったことがなかった。
晴斗も聞いたことがなかった。
聞く必要がないと思っていたのか、
聞くべき言葉が思い浮かばなかったのか、
どちらか分からなかった。
玲良が部室に入ってきた。「先輩、今日は吹かないんですか」と言った。
「後でな」と晴斗は言った。
「じゃあ、うち先に音出しして待っとります」と玲良が言った。
アルトサックスをケースから出しながら、「先輩、顔色悪いですよ」と続けた。
「そうか」
「そうですよ」
玲良がリードを口に含んで、スケールを吹き始めた。
音は素直だった。迷いがなかった。
晴斗はクラリネットを膝の上に置いて、その音を聞いていた。
第59話を読んでくださり、ありがとうございます。
この節では、宗一の“思考の手放し”と、
朔也の言葉がもたらす圧力が描かれました。
家族の誰もが気づいていながら、
まだ言葉にできない“変化”が進んでいます。
次の話では、その変化がもう少しだけ表面に出ます。
静かに、確かに。




