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鏡淵の調律 ―揃わないまま、君と生きる―  作者: ちとせ鶫
第6章:崩壊の臨界(前半)

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第58話 観測者の確信

第58話では、夕莉の“記録”が静かに変質していきます。

感情を書かないノート。

数字だけが増えていく日々。


まだ大きな異変ではありません。

ただ、夕莉の視界の中で“揃わないもの”が増え始めています。


静かな気持ちで読んでいただければ嬉しいです。

 ノートには感情の言葉を書かない、

 と決めていたわけではない。


 気がついたら、そうなっていた。


 ページを開くと、

 そこにあるのは日付と時刻、

 場所の略号、

 数字、

 記号だった。


「09月05日」、

「07:22」、

「洗面所」、

「姉・鏡・停止・3秒」。


 そういう行が、縦に並んでいる。

 読み返すと、何が起きていたかは分かる。

 その時自分が何を感じていたかは、分からない。

 書いていないから。


 書こうとしたことはあった。

 でも、書こうとした瞬間に、書くべき言葉が来なかった。

 「心配」でも「不安」でもなく、それより少し手前にある何かだった。

 名前がなかった。

 名前がないものは書けない。

 だから書かなかった。


 それだけのこと、だと夕莉は思っていた。


     * * *


 九月第二週の月曜日。夕食の時間に、朔也が来た。


「また来てしまいました」と朔也が言いながら玄関から入ってきた。

 声の温度は一定で、威圧も媚びもなかった。

 ただ、そこにいた。

 宗一が「ちょうどよかった、話がある」と書斎へ向かい、

 恵子が「今日はシチューよ」と鍋を持ってきた。

 夕奈が「朔也お兄ちゃん」と言いながら近寄った。


 夕莉は食卓の、端の席に座った。


 朔也の斜め向かいには座らない。

 真向かいにも座らない。

 視線が交差しない位置を選ぶ。

 なぜそうするのか、言葉にしたことがなかった。

 ただ、そうしないと何かが変わる気がした。

 何が変わるのかも分からない。

 気がするだけ。


 だから記録もしない。

 「食卓・朔也・席の回避」とは書いていない。

 言語化できないことは書けない。それだけのこと。


 食事の間、朔也は夕奈に話しかけていた。


「最近、学校はどう?」

「新しいクラスには慣れた?」


 夕奈が「うん」と言う。

 「好き」も「嫌い」もなかった。

 朔也は続ける。


「そう、よかった」。間が整っていた。

 朔也の言葉の間は、いつも整っている。


 夕莉は、シチューの皿の底を見ていた。


     * * *


 食後、廊下を歩いていると、書斎の前に立っている朔也の後ろ姿が見えた。

 ドアがわずかに開いていて、宗一の声が漏れていた。


「——それは、理解している。でも」という声と、

 朔也の「もう一段階、進める必要があります」という声が重なって、

 どちらがどちらか一瞬分からなくなった。


 夕莉は廊下の端で立ち止まった。


 朔也が宗一に資料を差し出した。薄いファイルだった。表紙の文字が見えた。「Phase-2」という文字だった。


 Phase-1というものがあったなら、Phase-2へ移行したということだ。

 移行するということは、Phase-1が終わったということだ。

 何かが終わり、次のものが始まっている。


 夕莉はそれだけを確認して、廊下を引き返した。


 部屋に戻ってノートを開いた。

 日付と時刻を書いた。

 「書斎前廊下・Phase-2資料確認・朔也→宗一」と書いた。

 感情欄は空白のままにした。

 感情欄は、最初からなかった。


     * * *


 翌朝の火曜日、七時過ぎに洗面所の前を通りかかった。


 扉が開いていた。

 夕奈が鏡の前に立っていた。

 動いていなかった。


 ただ、立っている、

 というより、止まっている、

 という表現の方が近かった。


 顔が鏡に向いていて、

 手は下ろしたままで、

 歯ブラシは洗面台の端に置かれていた。

 まだ使っていない。


 夕莉はそのまま廊下に立っていた。


 鏡の中の夕奈が、動いた。


 現実の夕奈は止まったままだった。

 鏡の中の夕奈だけが——何かを、確かめるように——わずかに首を傾けた。


 現実の夕奈が同じ動きをしたのは、一拍遅れてからだった。


 夕莉は廊下でそれを見ていた。


 「お姉ちゃん」とは言わなかった。

 声を出せば、止まっているものが壊れる気がした。

 何かが壊れることへの恐れではなかった。

 何かが確定することへの恐れだった。


 夕奈が気づいて振り返った。「あ、夕莉」と言った。

 声は普通だった。

 鏡の話はしなかった。


「おはよう」と夕莉は言った。

「うん、おはよう」と夕奈が言った。


 夕奈が洗面所から出ていった。

 夕莉はその場に少しだけ立っていた。


 鏡を見た。

 自分の顔が映っていた。それだけだった。


 部屋に戻ってノートを開いた。


 日付と時刻を書いた。

 「09:14:洗面所・鏡・先行動作・1拍」と書いた。


 「気がした」とは書かなかった。

 「1拍」と書いた。


 感情欄は、空白のままだった。

第58話を読んでくださり、ありがとうございます。


この話では、夕莉が“観測者”としての立場を自覚し始めました。

感情を書かないノートに、数字だけが積み重なり、

その数字が夕奈の異変を確かに示し始めています。


次の話では、夕莉の記録がさらに加速します。

彼女が見ているものが、少しずつ“形”になっていきます。


静かに続きます。

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