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鏡淵の調律 ―揃わないまま、君と生きる―  作者: ちとせ鶫
第6章:崩壊の臨界(前半)

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第57話 新学期の異変

九月一日の朝。

まだ色の決まりきらない空の下で、

ほんのわずかな“ズレ”が生まれます。


この第1節は、鏡淵という街の“静かな始まり”の章です。

大きな出来事は起きません。

ただ、揃いすぎる日常の中に、

ほんの少しだけ混じり始めた違和感があります。


ゆっくりと読んでいただければ、それだけで十分です。

 夏の終わりは、いつも少しずれて来る。


 九月一日の朝、鏡淵の空はまだ白っぽかった。

 雲でも青でもなく、ただ色が決まりきっていない感じ。

 そういう空だった。


 昇降口に入ると、靴箱の前でほのかと鉢合わせた。

 「おはよ」と言ったら「うん」とだけ返ってきた。

 ほのかがそのまま教室の方へ行ってしまったので、

 何か見たのかと思って同じ方向を見たが、何もなかった。

 何か探しているか、あるいは何かが見当たらなかったか、どちらかだ。

 特には聞かなかった。


 靴を替えながら、俺は廊下の空気を確かめた。


 鏡淵の九月一日は毎年同じだ。

 制服が夏から冬へ切り替わる。体育館で朝礼がある。

 担任が新しい席順を告げる。

 みんなが同じ速度で席に着く。

 その「同じ速度」という感触が、この街には妙に強くある。


 歩調が揃う、

 目線が揃う、

 息が揃う。

 そういう場所だと、ずっと思っていた。


 でも、今日の廊下は少し違った。


 うまく言葉にならない。

 「違う」というより「急いている」という感じ。

 揃えようとする力が、いつもより前のめりになっている。

 気のせいかもしれなかった。

 気のせいだと思うことにした。


     * * *


 放課後、吹奏楽部の練習室に行くと、知らない顔があった。


 小柄な女の子だった。

 制服の腕まくりが少し雑で、鞄の肩紐が斜めになっていた。

 アルトサックスのケースを体の半分くらいの大きさで抱えていて、

 それが妙に板についていた。

 中一にしては楽器との距離が近い。


 俺が入ると、その子がこちらに気づいてすぐに顔を上げた。


「先輩、瀬戸晴斗さんですよね? 噂は聞いとりました」


 語尾が少しだけ丸かった。

 標準語を使おうとしているが、どこかの言葉が滲み出ていた。

 九州、いや福岡か、熊本か、あの辺りの感じ。

 前にテレビか、なにかの動画で聞いたことがあったような。


「誰から?」

「んー、色々な先輩から。先輩、ちゃんと音聴いてくれるって」


 ふふっと楽しそうに笑いながら、朝倉玲良、とその子は名乗った。

 中一で、アルトサックス。

 吹奏楽部は昨日から見学に来ていたらしい。

 「今日から正式に入りますっ」と言った時に、語尾がはっきり跳ね上がった。

 肥後弁の音だ、と思った。

 本人は気づいていないか、気づいていて直せないかのどちらかだった。


 顧問の岸本先生が「瀬戸、ちょっと基礎からみてやってくれ」と言ったので、

 俺は玲良と並んで音出しをした。

 スケールを順番に吹かせながら、俺はクラリネットの第一音を一回だけ試した。

 今日の練習室の響き方を確かめる、いつもの癖だ。


 音は、普通に返ってきた。


 玲良はうまかった。

 基礎はまだ粗いが、音の出し方に癖がない。

 肺活量が安定している。


「中学から?」と尋ねたら、

「小学三年からです」と答えた。

「六年か」

「ばってん、最初の二年はうまくならんかったとです」と言いかけて、

 今度は少し止まった。

 方言が出てしまったことに気づいたらしかった。

「あの、すみません、普通に喋ります」と言ったので、

「どっちでも同じだ」と俺は言った。

 玲良が少し笑ってくれた。


 妙に懐っこい後輩だ、と思った。

 それだけだった。


     * * *


 夜、瀬戸家に帰ると夕奈が廊下にいた。


 いつもの場所だ。居間と廊下の境目あたり。

 晴斗がいない時間、夕奈はここに立っていることが多い。

 どちらでもない場所で、どちらかが来るのを待つ。

 待つ、という言葉が正しいかどうかは分からなかったが、

 他の言葉も思い浮かばなかった。


「おかえり」と俺が言った。

「......うん」と夕奈が言った。


 夕奈の右手が俺の制服の袖を掴んだ。

 いつもより少し強かった。


 気づいていないかもしれない。

 俺も気づかなかったふりをした。


「飯、できてるか」と言いながら居間の方へ向かうと、

 夕奈が袖を持ったままついてきた。

 袖はそのまま。

 力は、そのまま。


 夏の終わりは、少しずれて来る。


 そういえば今朝、廊下の空気が妙にせいていた。

 俺はそれをまだ言葉にできていなかった。


 何かが、もうすぐ変わる。


 何が変わるのかも知らないまま、夕奈と一緒に居間に入った。

読んでくださり、ありがとうございます。


この節では、まだ“異変”とは呼べないほどの小さな揺らぎだけが描かれました。

ほのかの短い返事、廊下の空気、夕奈の指先。

どれも些細で、でも確かに“揃わないもの”です。


次の節では、その揺らぎがもう少しだけ形を持ちます。

静かに、確かに。

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