第56話 揃わない者の名前(線を引く 2回目)
夏の終わり、ほのかは夕奈の中から「好き」が少しずつ消え、晴斗中心に上書きされていく危うさを感じ取る。
だが夕奈の揺らぎは壁のパネルの明滅とともに消え、ほのかは“吸収されていく感覚”に言葉を失う。
そして新学期、今度は如月澪の不在という新たな“空白”に、ほのかだけが静かに気づき始めていた。
夏休みが終わる日、空は少しだけ低くなっていた。
八月の終わりには、そういう日がある。
太陽の位置は変わらないのに、光の角度が秋を先取りして、
影が午後三時から長くなる。
ほのかはそれに気づくたびに、「街がまた揃えようとしている」
と思うのをやめられなかった。
瀬戸家のチャイムを押したのは、夕方の四時ごろだった。
「はーい」と返ってくるはずの声が、すぐには来なかった。
五秒、十秒。ほのかは二度押しするかどうか迷って、押さないことにした。
ドアが開いたのは、その直後だった。
夕奈が立っていた。廊下の奥、玄関から三歩ほど引いた場所。
居間のドアの手前。
そこで立ち止まったまま、ほのかの顔を見ていた。
「……ほのかちゃん」
「うん」とほのかは言った。「お邪魔してもいい?」
夕奈は少し考えてから、頷いた。
そのひと間が、最近また少し長くなっているとほのかは思った。
* * *
居間に入ると、晴斗の気配がなかった。
テーブルに飲みかけのコップが一つ。
テレビは消えている。
ソファに晴斗のジャケットが脱ぎ置いてあったが、その持ち主はいない。
「晴斗は?」
「少し出かけてる」
夕奈はそう言いながら、居間の入り口のあたりにもう一度戻った。
玄関側でも奥側でもない、中途半端な場所。
晴斗のコップの隣に座るでもなく、
ソファに腰を下ろすでもなく、ただそこに立っている。
ほのかには、すぐに分かった。
晴斗がいない部屋で、夕奈がどこに立てばいいか分からなくなっている。
「外?」
「近くだと思う」
「そっか」
ほのかは夕奈の斜め前、テーブルの角のあたりに立った。
正面には立たなかった。以前のことを、まだ覚えていた。
正面から踏み込みすぎて、弾かれた感触を。
「夕奈ちゃん」
「うん」
「自分の好きなもの、最近言えてる?」
夕奈は、そこで少し止まった。
この間のことを、ほのかは何度も思い返していた。
YATA端末を触ろうとしたとき、夕奈は無意識に「お兄ちゃんが好きなやつ」と言いかけて止まった。それだけだった。
でもその「言いかけて止まった」という構造が、
ほのかの中でずっと引っかかっていた。
夕奈の好きなものが、晴斗の好きなものに塗り替わっている。
夕奈が何かを選ぼうとするとき、先に「お兄ちゃんなら」が来る。
「……きらいなものは分かる」
夕奈は静かにそう言った。
ほのかは、その答えの重さをしばらく受け取っていた。
好きなものを聞いて、きらいなものしか分からないと答える——
それが今の夕奈の輪郭だった。
でもほのかは、畳み掛けなかった。
「きらいなものが分かるなら、好きなものも分かるんちゃう」
第一回とは違う入り方だった。責めるでも問い詰めるでもなく、ただ隣に置くような言い方。
夕奈の目が、少し揺れた。
「そう……かな」
その「かな」の中に、何かがいた。名前のないものが、一瞬だけ顔を出そうとした。ほのかはそれを感じて、息を止めた。
その瞬間だった。
* * *
居間の壁のパネルが、明滅した。
心拍のようなリズム。一秒に一度か二度か、規則的な白い明滅。
夕奈の視線がそちらに吸われた。
一拍。
二拍。
「お兄ちゃん、もうすぐ帰ってくるかな」
揺れが消えていた。
夕奈の声は穏やかで、さっきまでそこにいた「何か」は、
もうどこにもいなかった。
ほのかは何も言えなかった。
責める言葉もなかった。「そうやね」と返すのが、精一杯だった。
パネルの明滅は二十秒ほどで止まった。
部屋の空気が、少しだけ密度を取り戻した。
届きかけて、上書きされた。
前回は跳ね返された。今回は吸収された。
それが同じ失敗ではないことを、ほのかは体で理解していた。
跳ね返されるということは、まだ「外側」があるということだ。
吸収されるということは——
考えるのをやめた。
「うちも、もうちょっとしたら帰るわ」
「うん」と夕奈は言った。「また来てね」
その言葉は本物だったと、ほのかは思う。
夕奈は、ほのかのことを好きでいる。
ただ、好きという感情を取り出す場所が、少しずつ遠くなっている。
* * *
翌朝、九月一日。
昇降口は新学期の空気で満ちていた。
夏休みの話をしながら歩く二年生、
まだ緊張の残る一年生、
上履きを探している三年生。
ほのかはその流れの中を歩きながら、ふと足が止まった。
理由が、すぐには分からなかった。
何かが、いない。
いつも澪先輩が通る時間帯だった。
毎朝、昇降口の右端を通って、足音が少し早くて、よそを見ながら歩く先輩。
生徒会長だったから顔は知っている。
吹奏楽部の先輩だから声も知っている。
でも、今日はいない。
昨日も、そういえば見なかった。一昨日も。夏休みの後半、部活の自主練が始まった頃から——いや、もっと前から?
聞ける人間が思い浮かばなかった。
先輩と特別仲がいいわけではない。
吹奏楽部でも直接絡む機会は少ない。
何より、「最近見ませんね」と言うには、見ていない期間がどこからなのかが自分でも曖昧すぎた。
ほのかはそのまま教室へ向かった。
「……気のせい、かな」
でも、帰りにノートを開いた。異常記録のノート。信号のにじみ、足音の遅延、門柱の逆転。そういうものを書き留めてきたノート。
最後のページの、余白に。
日付と、一行だけ。
如月澪先輩、見ていない(八月後半から?)
説明はなかった。理由もなかった。
ただ、空白がそこにある。
ほのかはノートを閉じて、窓の外を見た。
九月の空は、八月より少しだけ遠かった。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
今回は「消える」のではなく、「上書きされていく」怖さを書いた回でした。
そして最後に置かれた“澪先輩の不在”が、これから静かに物語の輪郭を変えていきます。




