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鏡淵の調律 ―揃わないまま、君と生きる―  作者: ちとせ鶫
第6章:崩壊の臨界(前半)

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第62話 澪の消失

第62話では、如月澪の“不在”が静かに始まります。

誰も理由を知らず、説明もなく、ただ席だけが空く。


夕莉の記録は淡々と数字を積み重ね、

晴斗の言葉は届かず、

ほのかは初めて“違和感”を手帳に残します。


何も起きていないようで、

しかし確かに“ひとり分の空白”が広がる章です。

 十一月の三週目の水曜日、如月澪の席が空だった。


 夕莉は教室に入る前に廊下から室内を見渡す癖がある。窓側の列、後ろから二番目。そこに澪の鞄がなかった。一秒確認した。それだけだ。教室に入って、自分の席に座った。


 隣の席の子が「澪先輩、今日どうしたんだろ」と誰かに言っていた。夕莉は聞こえなかったふりをした。聞こえなかったふりをした、というより、処理の優先順位が後に回っただけだった。


 ノートを出した。


 「11月19日(水):如月澪・不在・説明なし」と書いた。


 それだけだった。続きを書こうとして、書かなかった。書くべき事実がそれ以外にない。理由も、状況説明も、夕莉には届いていない。届いていないことは書けない。だから「説明なし」という三文字が理由の代わりになった。


     * * *


 澪の不在が三日続いた。


 夕莉の記録はこうなっていた。


 「11月19日(水):如月澪・不在・説明なし」

 「11月20日(木):如月澪・連続2日・担任確認なし」

 「11月21日(金):如月澪・連続3日・担任確認なし・体調不良の噂(未確認)」


 「体調不良の噂(未確認)」と書いた。未確認、という言葉が必要だった。未確認の情報を確認済みのように扱うことが、記録を壊す。だから括弧に入れた。


 第5章の終わりに——夕莉がまだノートに日付を書き始めたばかりの頃——澪が放課後の廊下を早足で歩いているのを見たことがあった。吹奏楽部の方向ではなかった。学校の裏手の方向だった。手に何かを持っていた。紙か、薄い布のようなものだった。夕莉は後ろからそれを見ていた。澪が角を曲がった。それ以上は見なかった。


 記録にはしていない。「夕莉が目撃した」という事実が入ると、記録が客観から外れる。客観から外れた記録は記録ではない。だから書かなかった。


 でも覚えている。


     * * *


 金曜日の昼休み、晴斗が隣に来た。


 食堂ではなく、教室だった。夕奈が今日は別の場所で食べると言ったらしく——言ったというより、そちらの方向に歩いていったらしく——晴斗は少し間を置いてから夕莉の隣の席に座った。「ここいいか」と一応聞いた。「どうぞ」と夕莉が言った。


 二人で弁当を食べた。会話は特になかった。


 しばらくして、晴斗が窓の方を見ながら言った。


「そういえば澪先輩、見ないな」


 独り言のような声だった。夕莉に向かって言ったのか、自分に言ったのか、曖昧な方向の言葉だった。


 夕莉は箸を止めた。


 返す言葉が来なかった、というより、来た言葉を出さなかった。来た言葉は「知っている」だった。でも「知っている」と言うと、次に「何を?」が来る。「何を?」に答えられる言葉を夕莉は持っていなかった。「廊下を早足で歩いているのを見た」という事実ならある。でもそれが澪の不在と繋がるかどうか、確認していない。未確認のことは言えない。


 だから何も言わなかった。


「......そうだな」と晴斗が言った。


 それで終わった。


 弁当を食べ終わって、晴斗が席を立った。夕莉はノートを出した。


 記録を書こうとして、止まった。


 今の場面を書くとしたら何になるか、と考えた。「11月21日(金)・昼休み・晴斗との会話・澪の不在について・夕莉の返答なし」になる。「夕莉の返答なし」という記録は、夕莉自身が主語になる。夕莉自身が主語の記録は、観測記録ではなく自己記録になる。


 観測記録と自己記録は、別の種類のものだ。


 夕莉はノートを閉じた。


 窓の外を見た。曇っていた。澪の席は、月曜日にも空いているかもしれない。空いていたとして、夕莉は「11月24日(月):連続4日」と書くだろう。それ以上でも、それ以下でもない。


 数字は増える。それだけが事実だ。

第62話を読んでくださり、ありがとうございます。


この節では、澪の不在が三日続き、

夕莉の記録が“未確認”という言葉を必要とし始めました。


晴斗の問いは答えに届かず、

ほのかは言葉にならない違和感を手帳に書き留め、

それぞれが“見えないもの”に触れ始めています。


次の話では、この空白がさらに広がり、

夕莉の観測が別の段階へ進みます。

静かに、確かに。

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